卒業論文

   主査 近藤一成先生
   副査 山根幸夫先生

   題目 
李 卓吾の研究
 
   第一文学部 東洋史学専修 4年 C31048-1 向出研司

   目次

  
  序
  第一節 張 問達(ちょうもんたつ)  
  第二節 馮琦(ふうき)
  第三節 顧 炎武  
  結び       


   序

 李 卓吾(李贄<りし>)の同時代人である周 如登(しゅう じょとう)
(注1)の、『題卓吾手書(卓吾ノ手書ヲ題

ス)』
(注2)に、「試みにこの幅(卓吾の書)を出して人に示せば、必ずこれを愛する人もあろうが、とりわけ必

ずこれを悪(にく)む人もいよう。そしてその愛・悪のいずれも極めつきのものだろう。いったい人に愛をおこさ

せず、厭悪(えんお)もおこさせず、愛・悪もまたどっちつかずとしたら、どうしてこの字(書き物)を取り上げ、

卓吾老師たるゆえんを云々することがあろう。そのただ愛されるだけでなく悪(にく)まれもし、悪(にく)まれると

なればその極をきわめる。それが卓吾老師の字(書き物)たるゆえんなのだ。人の情は極まれば磨滅するこ

ともない。だからこれは、必ず世間に伝わるというのだ。古来、愛されることによって伝わる字(書き物)は多い。

しかし、悪(にく)まれることによって伝わるのは、この卓吾老師から始まる」とある。これは、卓吾の投獄と獄中

での自死の後に書かれたものである。


(注1)
周 如登

 『明史』巻283、列伝第171、儒林2、王畿・竜渓伝中に「清修姱(か)節、然其学不諱禪。汝登更欲合儒釈而会通之

…」(行いは真面目で節操を曲げない点は美しいほどでありながら、学ぶ姿勢は死をものともしない。汝登は儒学

と仏教の相通じ合う重要な点を、より一層取り上げて示そうとした…)とある。

 卓吾とともに同じ時代を、互いに影響を及ぼし合って生きた人物(1547~1629年)。

(注2)『題卓吾手書(卓吾ノ手書ヲ題ス)』

 『東越証学録』巻9に所収。また、卓吾の行状を伝える史料の一つ『李 温陵外記』巻3にも収められている。



 このような、周 如登による卓吾の書(つまり思想営為)の理解の仕方には、卓吾研究者の誰もが共感し得

るのではないだろうか。いうまでもなく、ここでいう愛・悪は、好き嫌いといった低い次元の問題ではなく、人生観・

倫理観・人間観、そして共同体観(政治観)に関わる問題である。李 卓吾を、そういった思想的な高みから理解

して愛した人と、憎んだ人の存在―私が思うに、これまでの卓吾研究は、この部分を踏まえることが希薄で

あったように思われる。つまり、卓吾支持者(理解して愛した人)の側に一方的に卓吾の理解者を求めるば

かりで、もう一方の極である卓吾弾劾側の人々にその可能性を認めて、彼らのその部分を追究することが弱

いということである。

 私はこのような点に着目して、卓吾を、彼の思想営為を理解した上で彼を憎悪し、その社会的抹殺を意図し

たと考える次の三人について主に考察することを、私の李 卓吾研究のアプローチの手段としたい。その三人とは

張 問達(ちょうもんたつ)・馮琦(ふうき)、そして顧 炎武である。それぞれを簡単に紹介すると、張 問達は、卓吾

弾劾文の上奏者であり、馮琦は、その上奏文により卓吾が投獄されると、それに追い打ちをかけて李 卓吾処分

の決定を支持し、さらに一層思想統制を強化すべき旨の上奏文を出した人物。そして、唯一卓吾と非同時代人で

ある顧 炎武は、清代に入って先の二人によるそれぞれの上奏文を自著で取り上げるという形で、卓吾の歴史的

評価を否定的に定着させようとした人物である。彼らの意図した目的は、卓吾の徹底的な社会的抹殺であり、

その性質は極めて政治的である。そして彼らの基本的な共通点は、東林派人士
(注3)であったということなのだ。


(注3)東林派人士

 
明の顧 憲成と高 攀(はん)竜を中心とする政治グループ。東林書院にて、正義を標榜し政治に忌憚なき批判を

加えた。大宦官の魏 忠賢が政治を乱した時代に、多くの東林派人士が殺され、そのほとんどが政界から排除

された。しかし崇禎帝の時代の初めに、魏 忠賢が誅されることによって公平な議論が行われるようになり、東林

派も再び盛んとなった。



 
そこで、東林派人士の性質とともに、三人それぞれの立場・状況を考察する。そして特に、卓吾とともに張 問

達・馮琦(ふうき)の生きた明朝末期の政治や思想の状況を考察する。その二つの考察を中心手段としつつ、

逐一、卓吾の著作である『焚書』
(注4)・『蔵書』(注5)にあたりながら、李 卓吾の思想営為の新たな位置付け

を試みたい。


(注4)『焚書』

 全6巻。内容は書簡、雑感を述べた文、歴史書の読み込みと意見、自作の詩など。卓吾自身が、「このような本

は世人を惑わすと責められて、焚(焼)かれてしまっても仕方がない」という意味でつけた題名。

(注5)『蔵書』

 全20巻(68巻のものもあり)。中国古代から、卓吾が生きた明朝以前までの紀伝体の叙述形式で著された歴史書

である。その見方・考え方は、必ずしも従来の儒学者のものに従わずに、独自の見地に立って評論している。卓吾

自身が、「このような本は現代には合わないが、知己(自分のことを理解してくれる人物)を後世に待つ為に秘蔵し

て世には出さない」という意味でつけた題名。



   
第一節 張 問達(ちょうもんたつ)

 李 卓吾が獄死するに到った直接の原因は、時(1602年)の礼科都給事中
(注6)張 問達による弾劾文の

上奏であった。彼の行状を見る史料
(注7)としては、『明史』の「張 問達伝」や『蒼霞餘草(そうかよそう)』中

の「張公偕配韓氏継熊(ゆう)氏墓表」が挙げられる。最初にそれらを見てゆこう。



(注6)
礼科都給事中

 礼科都給事中とは、以下のような官職である。明代に、唐代の六(りく)部(ぶ)に倣(なら)って六科(りくか)とし、各科に都

給事中(長。都は「全て」を意味する)、左給事中と右給事中(それぞれ次官)、給事中の各官が置かれた。給事中

の人員は、吏科・工科に4人、礼科6人、戸科・刑科に8人、兵科に10人が配され、官位は正7品と従7品に属した。

礼科都給事中の職務は、六科内各官の監察と上奏のことを司ったので、そのポストにあった張 問達の職責は重大

であった。

(注7)彼の行状を見る史料

 『明人伝記資料索引』(国立中央図書館民国54年)による。


 『明史』の「張 問達伝」が明らかにしているのは、彼は、その在官時代に、反砿(こう)税(注8)の上奏を行い、

或いは三案
(注9)では、宦官(かんがん)派を弾劾する上奏を行うなど、反宦官派としてその行動は一貫しており、

この為、最後は大宦官の魏 忠賢一派によって官位を削奪され、さらに十万金の追徴金を課せられ、失意のうちに

死没した
(注10)、ということである。また、彼の父である鶴川(かくせん)公は地方官を務めた郷紳(退職官僚や科挙

合格者で郷里に居住した有力者)だが、よく一族の人達や村人達に恵むことを行って長者と呼ばれ、息子の張

問達が顕官に出世した後も、村人達の中で同等に暮らして驕り高ぶることがなかったと言われ、また、その母

である韓 恭人もよく姑(夫の母)に仕えて倹約に励み、窮乏した際に簪(かんざし)や耳飾りを手放すことを厭(いと)わ

なかったような人物であり、その継母(ままはは)である熊孺(ゆうじゅ)人も、家の管理に行き届き、洗濯やつくろ

いものは全て自分の手でやったと伝えられる
(注11)。そして、彼は先に紹介したその行状に明らかなように、

典型的な東林派(宦官一派の非東林派による悪政に反抗した官僚や学者の党派)人士であり、その名前は反

政府運動家の名前を掲載したブラックリストで知られる東林党人榜(ぼう)
(注12)に載せられているのである。


(注8)
砿(こう)税

 砿税というのは鉱山にかけられた税だが、その実際は、朝廷から各地に直接派遣された宦官からなる税監による

恣意的で無差別な強制収奪であった。『明史』巻20、神宗本紀に「始遣中官(宦官のこと)開砿於畿内示畿河南・山東

・山西・浙江・陝西悉(ことごとく)令開採以中官…」とあるように、初の砿税は万暦24年(1596年)に行われている。『明

史』の張 問達伝では「俄(にわかに)陳砿税之害、言…閹尹(えんいん)(宦官の長のこと。閹は「宦官」、尹は「長官」)

一朝(ある日)…令(命じる)、…」「疏(上奏文のこと)陳道中饑饉(飢饉)流離(流亡者のこと)状、請(請う)亟罷(やめ

ること)天下砿税、皆不報(報われなかった)。」「30年10月、星変、復請盡(つくす)罷砿税」と、三度にわたる張 問達

による反砿税の上奏文が見られる。

(注9)三案

 三案とは、神宗の後の皇太子擁立をめぐる抗争であり、先に述べた砿税問題とともに、宮廷内の権力争いであり、

宦官一派の専横への東林派官僚の対抗である。『明史』張 問達伝中に、「問達歴更大任、…三大案並経其手。」とあ

る。

(注10)失意のうちに死没した

 張 問達伝中の「5年、魏 忠賢(人名。宦官勢力の中心人物)擅(ほしいままにする)国。御史(監察官)周 維持(人名)

劾問達(張 問達を弾劾した)…乱政(政治を乱す者として)、遂(ついに)削奪。…命損貲十万(十万金の罰金を命じられ

た)。頃之(この頃)、問達卒(死んだ)。」

(注11)洗濯やつくろいものは全て自分の手でやったと伝えられる

 
『蒼霞余草』巻65、眉州判官張公(問達のこと)偕配贈恭人韓氏孺人熊氏李氏墓表、より。

(注12)東林党人榜(ぼう)

 『明史』巻22、熹宗本紀には「(天啓5年)12月乙酉榜(「札付きの悪党」という時の札)東林党人姓名頒示天下…」とあり、

熹宗実録巻66には「…一切党人姓名罪状榜示海内(天下のこと)…」とある。また、『東林列伝』には、東林党人榜に掲載

された党人の名前を全て挙げている。


 
『明史』の「張 問達(ちょうもんたつ)伝」を、もう少し詳しく見てみよう。彼が内閣の所轄大臣である戸部(こぶ)

(財政事務担当の役所)科給事中、吏部(りぶ)(官吏の選任事務担当の役所)科給事中などの重職を歴任し、

特に後者として彼は、「連掌内外大計、悉(しつ)叶(きょう)公論(内政外交の重大な政策の実行者に連なり、

それが全て公論に叶う)」といった活躍をみせ、その人柄も「持議平允(へいいん)(公平なこと)」、「不激不情

(冷静で感情的にならない)」と述べられている。


 
以上述べてきたように、張 問達という人物は優秀な政治家であり、剛直の廉(れん)吏(り)(公正で潔白な

役人)であったと言うことができる。そのような人物が、監察業務という「お役目柄」とはいえ、たとえば李 卓吾

の著作を読むこともせずに
(注13)、彼を誤解して地方官吏の伝えることや、俗評・風聞を上司に取り次いだ

とは思えない。また、彼が名教(権威にあぐらをかいた当時の儒学者連中)側・体制側の人間として、単に既成

の倫理・権威の護持の為に李 卓吾を弾劾したとも思えない。私は、張 問達はあくまで、李 卓吾の思想営為を

真に理解した上で、その本質的な危険性を十分に把握して是が非でも彼の抹殺を意図したのだと考えたい。


 
以上のような前提を、次に東林派人士である張 問達が、李 卓吾弾劾までにどのような政治的状況・立場に

置かれていたのかを考察することによって補強してみよう。

 『明史』の「張 問達伝」冒頭に見るように、彼の進士(中国の官吏任用制度である科挙の科目の一つで、

文学を主とするもの)合格は万暦11年(1582年)であり、この前年にあの張 居正
(注14)が死没している。張

居正は、明の末期、里甲制的皇帝専政体制(里甲制とは、110戸と10戸をそれぞれ1里と1甲の単位とする

明代の郷村行政制度。110戸を富戸10戸と一般戸100戸に分け、富戸から1名輪番で里長を、一般戸の10

グループからそれぞれ1名輪番で甲首を出し、里長と甲首の合計11名で賦役黄冊の作成や税収、治安維持

を行ったもの。皇帝専制体制とは、皇帝が里甲制を通して直接的にその住民を統治するという政治体制)が

崩れてゆく中で、幼い万暦帝のもと、皇帝中心の専政体制の立て直しに努めた宰相であり、東林派人士は

等しく彼に批判的であった
(注15)。その批判は、「皇帝による一元的な国家支配への対抗」という意味で、

広く公論を尊重すべしとする彼らの主張と、郷村共同体的政治秩序(東林派人士やその一族を含めた、地方

の実力者を中心とした国家の在り方)への指向といった、彼らの目指す政治的構図を性格付けていったと言

えるのである。

 そういった事を意識すると、張 居正が死没した翌年の張 問達の進士合格という事実が、一つの意味合い

を持ってくる。つまり、彼の東林派官僚としての大きな「気負い」、といったものが想像できるのである。



(注13)李 卓吾の著作を読むこともせずに

 問達による卓吾弾劾文中に「又作観音問一書(観音の質問に答えて書いた文章)。所謂(いわゆる)観音皆士人妻女

(有力者の妻や娘)也。」とあり、卓吾が著書『焚書』の「観音問」で「観音とは観世音菩薩<救いを求める人の心に応じて

千変万化する菩薩>」と
説明していることと照合すると、これが問達による明白な作り話であることが分かる。このことだけ

を見ると、いかにも問達が『焚書』に目を通していないように思われるのだが、問達は「確信犯」なので事実は逆である。

(注14)
あの張 居正

 張 居正(1525~82年)。その思想は、表面上は儒家的、本質は法家的であり、常に心を師とした自己を主体とする生活

態度であったとされる。その政治は、官僚統制によって性格づけられる。つまり、人材登用と人事コントロールの二面にお

いて彼の政治手腕が十分うかがうことができるということである。前者としては、公平厳正な登用・業務指導と一定年限の

考課(成績の監察による罷免・摘発・昇進等)がその内容であり、後者については、行政系統(上意下達の命令・支配系統)

を明確に規定するというものである。また参考として次のような張 居正評があること紹介しておく。「張 居正の独裁的政治

手法は、封建的専政王朝に対抗して台頭する新興勢力を阻止し、多くの自己矛盾を内蔵しつつ、あえない最期を遂げた反

動体制であった」(鈴木正「張 居正の研究」<史観 第49。1957年>)。

(注15)東林派人士は等しく彼に批判的であった

 東林派人士の闘争は、万暦22年(1594年)に、中心人物の顧 憲成が籍を削られた事件(万暦帝の長男を早急に皇太子に

するべきであるとする、当時の政治を激しく批判する意見書を発表するが、それが容れられなかったため辞職したこと)を発

端として現出してくる。しかしその闘争が、皇帝による一元的専政体制という政治路線の立て直しを図った張 居正との対立

としてすでに始まっていたことは、小野和子「東林派とその政治思想」(京都東方学報 28号。1958年)に詳しい。


 
ところが、張 居正の没後に現出した政治状況は、親政を始めた神宗万暦帝とその私的な権力機関である

宦官一派による専横であった。それは張 居正が立て直そうとした単なる里甲制的な皇帝専政体制ではなく、

官僚体制からも遊離した皇帝の私権力むき出しの専政体制
(注16)であり、この背景には、郷村における郷

紳士大夫・地主層の政治的離反や、里甲制的な農村支配秩序の崩壊という大きな時代の潮目の変化があ

ったのである。

 
やはり『明史』の「張 問達(ちょうもんたつ)伝」によると、彼は進士合格後の数年間を山西省・山東省の県

知事として送った後、寧夏に起こったボバイの乱(万暦20年<1592年>)までに、刑科給事中として中央政府

に進んでいる。そして、そこで進取の気概に溢れた、しかも監察業務を司る高級官僚として、既述のような、

いわゆる「逆コース」の、さらに悪質な宦官一派の専横といった政治状況を目の当たりにしたという事実が、

当時の張 問達にとってのまぎれもない現実であったのだと想像できる。

 『明史』の「神宗万暦帝本紀」(巻20中)を見ると、宦官派遣による強制収奪の最初の砿税・商税は、万暦

24年(1596年)に行われている。つまり、いよいよ東林派人士(すなわち張 問達)の指向する政治的構図とは

逆の方向への皇帝の指向が明らかになってきたのがこの時からである。そして張 問達は、ボバイの乱の後

に工科左給事中に昇進して、自らの政治的課題に立ち向かうことを始めている(「帝方営建両宮<皇帝が

二つの宮殿を建設する際に>、中官<宦官のこと>利乾没<利益の横取りをしようとして>、復興他役

<建設の役とは別の役を徴収した>。問達力請停止、不納<張 問達はそれを止めさせることに力を尽くした

がだめだった>」)。

 さて、ではこのような人物である張 問達はどの時点で、どのように李 卓吾の思想に出会ったのであろうか。

李 卓吾の思想が集約された代表的な著作である『焚書』は、張 問達が中央官(刑科給事中)となった頃の

万暦18年(1590年)に、李 卓吾の本拠地である湖広省麻城県で刊行されている。そして、李 卓吾の本領発

揮とみなすことができるもう一つの主著『蔵書』は、張 問達が礼科都給事中に昇進した頃の万暦27年(1599年)

に南京で刊行されている。

 そういった符号から、また監察業務という官職として中央政界に「デビュー」したばかりの張 問達が特に

士人層に影響力のあった李 卓吾の著作物に敏感であったであろうという想像から、そして何よりも、これまで

述べてきたような彼の置かれた政治状況・立場の理解から、張 問達がそれこそ刊行からさほど時間が経過

しないうちに両書を充分に読み込んでいたと考えられる。そうすると、彼による李 卓吾の思想営為の理解が

どのようなものであったかということが次に問題になってくる。先に記したように、私は、礼科都給事中の要職

にある張 問達による李 卓吾弾劾は、彼の思想を真に理解して、その反名教・反体制といった表面的な部分

に拘泥することなしに、本質的な危険性を把握した上での緊要、かつ切実な行動の現れであったと考える。

では、張 問達が看取・把握した李 卓吾思想の本質的な危険性とは何であったのかを、李 卓吾が著した書物

にある実際の言葉を取り上げることによって考察してみたい。



(注16)官僚体制からも遊離した皇帝の私権力むき出しの専政体制

 
(注8)で引用した『明史』神宗本紀に、「群臣屡(しば)シバ諫(いさ)ムレドモ聴(き)カズ。…大学士(宰相の)趙 志皐(ちょう

きょこう)、朝ヲ視(皇帝に拝謁し)、章奏ヲ発シ(上奏して)、採砿ヲ罷(や)メルコトナドヲ請ウモ、報ワレズ。…是(こ)ノ後各省ニ

皆税使ヲ設ケル(徴税官を設置した)。」と続いているように、時の群臣はもとより、宰相の趙 志皐の諫奏すら無視して砿税が皇

帝や宦官勢力によって強行されたことが分かる。


 李 卓吾と東林派人士(すなわち張 問達)の根本的な相違点を明確に示すものに、先に紹介した宰相張

居正に対する評価ということが、その点についての両者の真っ向からの対立ということが一つ挙げられる。

まずは、李 卓吾による張 居正評価を見てみよう。

 『焚書』・『続焚書』の二書には、

 
ア、江陵(張 居正のこと)宰相之傑也
(注17)

 イ、士為知己(ちき)死、死且甘焉…但此語只可対死江陵與活温陵(李 卓吾のこと)道耳
(注18)

  (士は自分のことを分かってくれている人の為に死に、死すら且つこれを甘んじる…ただこの言葉は、

  死んだ張 居正の生きている李 卓吾に対して言えるのみである)。

 ウ、今日真令人益思張 江陵
(注19)

  (今日本物の地方長官などは益々張 居正のことを思い出している)。

 エ、臣之強、強於主之庸耳、…夫天下強国之臣、能強人之国而終身不謀自強、而甘岌岌以死者
(注20)

  (臣の強は主の庸よりも強い。…天下強国の臣は、よく人の国を強くしてしかも終身自強を謀らず、危難

  に死ぬことに甘んずる)とある。

 次に『蔵書』を見ると、

 オ、君不能安養斯民、而後臣独為之安養斯民
(注21)

  (君が民を安養できなければ、臣一人が民を安養させるほかない)。

  とある。

 ちなみに、李 卓吾は、54歳(万暦8年<1580年>)で官を辞して学問生活に入る
(注22)のだが、この翌々

年に張 居正が死没している。つまり、李 卓吾の任官時代は張 居正が活躍した時期と一致しているのである

(注23)。この事実を視野に入れて、上の李 卓吾による張 居正評価を検討しよう。

 ア・イ・ウは、李 卓吾の張 居正追慕を表し、エ・オは、李 卓吾の一つの政治観を表している。これらを総合

して考えると、おそらく李 卓吾は、張 居正死没後に現出した政治状況を、官ではない立場で目の当たりにし、

自らが官職にあって意識していたであろう強力な張 居正執政の時代とは相対的に弱体化したかに見える

中央の支配体制が、強臣の出現によって立ち直ることを期待したのであろう。

 特にウの記述のある『焚書』巻2「答陸 思山」を見ると、この言葉の前提になっているのが、「倭奴水寇」

といった具体的な外患を含めた、「今日の天下の危急に際して」であるところに注目したい。李 卓吾の言う

この「今日の天下の危急」とは、上に述べた張 居正死没後に現出した政治状況に起因する動乱に外患を

加えたもの―具体的には、内政面の矛盾の激化に伴う国論分裂(砿税問題・三案問題など)と、万暦20年

(1592年)に一気に押し寄せる外患(2月に西の寧夏<ねいか>のボバイの乱、5月には東の豊臣秀吉の

朝鮮出兵)を指している。



(注17)
江陵宰相之傑也

 『焚書』巻1、「答鄧 明府」より。

(注18)故西夏叛卒至今負固


 『焚書』巻2、「与友山」より。

(注19)今日真令人益思張江陵

 『焚書』巻2、「答陸 思山」より。

(注20)而甘岌岌以死者


 『続焚書』巻2、「論彙、強臣伝」より。

(注21)江陵(張 居正のこと)宰相之傑也

 『蔵書』巻68、「外臣伝、吏隠、馮道(ふうとう)」

(注22)官を辞して学問生活に入る

 卓吾の行状は、『焚書』冒頭の袁 中道による「李 温陵伝」と、同書巻三の孔 若谷(じゃくこく)による「卓吾論略」に詳しい。

(注23)李 卓吾の任官時代は張 居正が活躍した時期と一致しているのである

 溝口雄三「李贄年譜」(1971年、平凡社刊『中国古典文学大系』 55『近世随筆集』所収)によると、卓吾の任官は次の通り。

  嘉靖35年 河南省輝県の教諭

  嘉靖39年 南京国子監博士

  嘉靖42年 北京国子監博士

  嘉靖45年 礼部司務

  隆慶 4年 南京刑部員外郎

  万暦 5年 雲南省姚(よう)安府の知府

  万暦 8年 任期満了で辞官

 そして、張 居正の活躍は、隆慶元年に吏部左侍郎兼東閣大学士、万暦元年に主輔(しゅほ)(宰相の長)となっている。


 このように見てくると、張 居正を基準点にして、李 卓吾が「保守反動」の体制擁護者であり、張 問達が

「進歩的」な反体制政治家である、といった位置付けが可能になる。これはこれで李 卓吾理解の一つの

重要な視点であるが、李 卓吾の張 居正礼賛の根底にあるものを見逃してはならない。今は問題としな

いが、その同じ「根底」は、たとえば童心論や、男女平等説(的な考え方)、商人の営利活動の弁護、三教

(儒教・仏教・道教)一致論など
(注24)といった、一般に李 卓吾の本領としてよく知られた思想に連なる

ものであるのだから。

 この論文では、上述の「根底」に深入りすることは避けたいが、ここで特にその内容を象徴する李 卓吾

の次の言葉を挙げておきたい。それは、

  夫天生一人、自有一人之用、不待取給於孔子而後足也
(注25)

  
夫(そ)れ天の一人を生(しょう)ずるに、自(おの)ずから一人之(の)用有り。

  給を孔子に取りて後(のち)足(た)るを待たざる也。

  (人は天からこの世界に生まれ来て、一人ひとりが自分ならではの価値を持ち、

   それを働かせて生きてゆく。誰か孔子のような偉い人に教われば十分である

   ということは、ないのです)

という一節である。特に後半の「不待取給於孔子而後足也」は、聖人になる、聖人であることを、いかなる

人間にも適用する究極の価値とする必要はない、ということを言っているのである。

 一体、李 卓吾はこの言葉になぞらえて、他ならぬ自分自身にとっての「一人之用」をどういうものとして捉

えて実際に生きたのであろうか。私はここで、李 卓吾が「孔子は伝道、自分は証道」
(注26)と述べているこ

とを想起する。李 卓吾は、まさに道標として孔子を、すなわち儒学を選択したが、それは彼にとって(彼のい

う人間一般にとって)あくまで一つの手段に過ぎず、目的というわけではなかったのである。「一人之用」が

目的そのものであり、李 卓吾のそれは、「証道」という困難極まりないものであったのだ
(注27)。そういった

意味で李 卓吾は、反儒学ではなくてむしろ自ら儒学の正統をもって任じていた、反儒家的・反士大夫的・反

名教主義的な儒学者であったと規定することが可能である。


(注24)
童心論や、男女平等説(的な考え方)、商人の営利活動の弁護、三教(儒教・仏教・道教)一致論など

 『焚書』巻1、「答鄧 明府」より。これらの卓吾思想の考証は、島田虔次(けんじ)『中国に於ける近代的思惟の挫折』(1949年、

筑摩書房刊)に詳しい。

(注25)夫天生一人、自有一人之用、不待取給於孔子而後足也


 『焚書』巻1、「答耿(こう) 中丞」より。

(注26)「孔子は伝道、自分は証道」

 『焚書』巻1、「与耿 司寇告別」より。

(注27)
「証道」という困難極まりないものであったのだ


 「伝えるべき道などはない。証(あか)すべき道しかない。いや証すべき道もない。あるのは証さんとする希求だけである。そして

それはついに道そのものでははない。だが我々は彼(卓吾)のこの凄絶な歩みの跡に、多くの思想的所産をみてとることができる。

道を求めて歩きつづけたその足跡が一筋の道となって残ったのである。」(溝口雄三『中国前近代思想の屈折と展開』<1980年、

東京大学出版会>)120~121ページ)


 
では、張 問達(ちょうもんたつ)・馮琦(ふうき)・顧 炎武といった三人は、李 卓吾の上記のような部分を、

つまり同じ儒学の徒でありながら、たとえば李 卓吾のすさまじい求道(証道)の念が、彼をして仏教・道教

に傾斜させたという儒家の形式主義・教条主義を否定し、その枠をはみ出すといった反儒家の姿勢を、

いわば「近親憎悪」的に憎んだ、という面があるのではないか。いや、むしろそういった個人的な感情で

なく、儒学の内側から儒学の在り方そのものを批判するといった李 卓吾の思想の性格が有するところの

士人層への大きな影響力を、公的な立場から切実に危惧した、という方が事実に近いであろうと思われる。

 しかし、この問題はさらに掘り下げられなければならない。「近親憎悪」という言葉を私は先に使用したが、

李 卓吾と張 問達・馮琦・顧 炎武の三人の間の距離は、実はさらに「近い」のである。その「近さ」を思想面で

見ていくのは第2節に譲るとして、ここでは、東林派人士としての張 問達と李 卓吾がそれぞれ指向した政治

的構図に焦点を絞って考察することによって、「近さ」ゆえの張 問達の危惧を浮き彫りにしたい。

 李 卓吾が張 居正を、民生を安定させたという社会的有用性(これが彼の「一人之用」)に基づいて高く

評価したことは、次の『蔵書』中の言葉からも理解することができる。

  
始皇帝自是、千古一帝也
(注28)

  
漢興陳平之謀居多平非惟有定天下之勲亦且有安社稷之烈使…予以謂智謀之士可貴也若

  夫惇厚清謹士之自好者亦能為之以之保身雖有餘以之待天下国家緩急之用則不足是亦不

  
足貴矣是故惇謹之士于斯為下
(注29)(漢の興起には陳平(注30)の智謀があずかって大き

  
い。陳平には天下平定の武勲があったばかりでなく、社稷(しゃしょく)<社会や国家>安定の

  
功業がある。…私の考えるところでは、智謀の士こそ貴ばるべきである。惇厚清謹(とんこう

  
せいきん)<人情に厚く清廉なこと>ということは、自ら信ずるところのある士人なら勿論それ

  を能くし得ようが、それだけでは身を保つには十分でも、天下国家の急場の用に役立てるに

  は不足であり、これではやはり貴ぶに足りない。つまり惇厚清謹の士はこの点で下である)。

  孟子曰社稷為重君為軽信斯言也道知之矣夫社者所以安民也稷者所以養民也民得安養而

  後君臣之責始塞君不能安養斯民而後臣独為之安養斯民而後馮道之責始盡…五十年間雖

  経歴四姓事一十二君并耶律契丹等而百姓卒免鋒鏑之苦者道務安養之力也…後世人士皆

  不知以安社稷為悦者矣
(注31)。(孟子は「社稷は重く君は軽い」と言った(注32)。真にその

  言葉通りであるが、馮道(ふうとう)はそのことをわきまえていたのである。そもそも社は民を

  安んじ、稷は民を養う為のものである。民が安養を得てこそ君臣の責任が初めて果たされる

  
のであるが、もし君主が人民を安養し得ないのであれば、臣下が一人で君主に代わって人民

  を安養しなければならない。かくてこそ馮道の責任は初めて尽くされたことになる…馮道は五

  十年間に四つの王朝を経歴し、十二の君主と、さらには契丹(きったん)族である耶律氏にも

  仕えたが、人民がついに戦禍の苦しみから免れ得たのは、彼がその安養に努めたお陰である

  …後世の人士は皆社稷を安んずるのを喜びとすることを知らぬ者ばかり云々)。


(注28)
始皇帝自是、千古一帝也

 『蔵書』「総目中(混一諸侯)
」より。

(注29)…是故惇謹之士于斯為下

 『蔵書』巻22、「智謀名臣論」より。

(注30)陳平

 漢の陽武(河南省)の人、初め項羽に仕え、後に高祖に帰し、その天下平定を助け、しばしば奇計を出し軍功をもって曲逆侯に

封ぜられ、恵帝の時に左丞相、文帝の時に丞相に任じられた(『史記』「陳丞相世家」)。

(注31)
…後世人士皆不知以安社稷為悦者矣

 『蔵書』巻68、「外臣伝 吏隠 馮道」より。 


(注32)孟子は「社稷は重く君は軽い」と言った


 『孟子』「尽心下篇」の「民を貴しと為(な)し、社稷これに次ぎ、君を軽(かろ)しと為す」という民本説を指す。



 そして上に記した『蔵書』中の李 卓吾の言葉は、張 問達(ちょうもんたつ)による弾劾の上奏文において、

次のように問題とされている。


  近又刻蔵書焚書、卓吾大徳等書、流行海内、惑乱人心(しかも近年、『蔵書』・『焚書』・『卓吾大徳』

  などの書物を刊行し、それらは世間に広く流行して人心を惑乱している)。以呂不韋李園為智謀、以

  李斯為才力、以馮道為吏隠、以卓文君為善択佳偶、以司馬光論桑弘羊欺武帝為可笑、以秦始皇為

  千古一帝、孔子之是非為不足拠(呂不韋・李園を智謀者と言い、李斯を才力ある者と言い、馮道(ふう

  とうを吏隠と言い、卓文君のことを善く佳偶(よい配偶者)を選んだ者と言い、司馬 光が『桑 弘羊(そう

  こうよう)は、武帝を欺(あざむ)いていた』と論じているのを笑うべしと言い、秦の始皇帝を千古の一帝

  と言い、孔子の言葉を従うのには足りないと言っている)。

このことに関しては、後に詳しく述べることとしたい。

 これらの『蔵書』中の記述のうち、特に三番目に挙げた馮道についての言葉の中の、「君不能安養斯民而

後臣独為之安養斯民而後馮道之責始盡」という李 卓吾の臣下観(優れた臣下とはどのようなものか)は、

明らかに先の張 居正評価と相通ずるものであり、この点では張 問達と完全に対立している。しかし、同じく

馮道についての言葉の前半部分「孟子曰社稷為重君為軽……」からは、李 卓吾が、王朝や国家は君主の

ものではなく、民の為にあるものであると考えていることが分かる。そして、この点については東林派人士と

しての張 問達の指向する政治的構図と、全く共通するのである。

 このことは、張 問達(ちょうもんたつ)が民生の安定の為、万暦帝とそれを取り巻く宦官一派と対決したこと

を示す、先の『明史』中の「張 問達伝」を見ても明らかであるし、次に紹介する東林派人士の巨頭である高

攀竜(こうはんりゅう)
(注33)の言葉「天子より下は一邑の宰に至るまで、農耕して食わすのは民の力、機織

(はたお)りして着せるのは民の力、…何一つとして民の力でないものはない」
(注34)などからも十分うかが

うことができる。しかし、この民生重視という両者の共通点の背後には、実は次のような両者の考え方の違

いがある。それは、李 卓吾が地主と佃戸の関係を水平的にとらえ、民一般の視点で民生重視を論じている

(注35)のに対し、東林派人士は、官僚として、またそのほとんどが地主出身という立場からして、地主と佃戸

の関係を、富民層である地主や大商人を上位に下層の民である佃戸などを下位に置いた、垂直的なとらえ

方をした地主的視点で民生を問題にしているということである。


(注33)
高 攀竜

 『明史』巻243に列伝がある。顧 憲成とともに、東林書院を修復して学を講じ、世に「高顧」(高 攀竜と顧 憲成)と称せられた。

(注34)「何一つとして民の力でないものはない」

 『高子遺書』巻10より。

(注35)民生重視を論じている

 『道古録』(『説書』ともいい、卓吾が知己門弟と学説の問答を行ったものの説録)巻1にある「…かの政教が民の心をただし教化

に帰服せしめえないのは、隙間のない禁約の条項によって民を特定の条理(吾之条理)に帰就せしめようとするからにほかならぬ。

…そもそも天下の民が各々その生を遂げ、その願うところを得るならば、心をただし教化に帰服しないものは一人もあるまい。…

好悪は民の欲するところに従い、己の欲するところによって決めない。これをこそ礼という(溝口雄三『中国前近代思想の屈折と展

開』<1980年、東京大学出版会>
156ページ)と、『焚書』巻3「兵食論」(『蔵書』中の「張載論」と同じ)にある「人間の原初にお

いて、まずその生を養うのは食、その身を守るのは兵だ。「食ヲ去リ兵ヲ去ル」というのは、求めてすることではなくやむを得ずする

ことだが、やむを得ずする以上、下たるものはそのやむを得なさに忍びきれず遂に上を信じなくなるであろう。…」(訳は上に同じ。

244ページ)から。


 
そして、そのことと先に述べた李 卓吾の張 居正評価や臣下観を総合して、『中国前近代思想の屈折と

展開』の著者溝口雄三は、「彼(李 卓吾)は事実上、君臣一体による旧来の『君-官-民』の一元的秩序

を構図として描いていた。それはいわば国家を一つの共同体とし、ただしその共同体に於いて民の欲望

を政治の主体とし、『君臣→民』から『民→君臣』へと政治的ベクトルの逆転をもたらすものであった点で

東林派の政治観を先取りするものではありながら、その構図は旧来の里甲制的体制=国家的共同体の

枠を破るものではなかった。したがって彼における民は、里甲制的体制によって地主・佃戸の別なく一列

に皇帝の民とされたあの里甲制的民と事実上重なるものであった。」
(注36)としている。

 私も上の溝口氏の論にほとんど賛同するが、先に述べたところの李 卓吾の思想が根底に有するもの

に基づく私の李 卓吾観に照らし合わせると、もう一歩深く掘り下げて次のように考える。

 李 卓吾は、目的としての民生の安定が現出するならば、そのための手段については、東林派人士の

主張する公論尊重の富民主導型の郷村共同体的な政治的構図であれ、独裁的な宰相張 居正のよう

な強力なリーダーシップの存する里甲制的な皇帝専政体制でもかまわなかったのではないだろうか。

そして、それを本心としながらも、李 卓吾が張 居正執政時代の政治的安定(民生の安定)を当時の官僚

として身をもって経験していたがゆえに、そして、地主としての視点を欠いていた
(注37)がゆえに、一つの

手段として、実は崩壊しつつある里甲制的な農村支配体制を政治的構図として指向したのであろう。



(注36)
溝口雄三『中国前近代思想の屈折と展開』252ページより。

(注37)地主としての視点を欠いていた

 卓吾の地主としての視点の欠如については、上の255~256ページに詳しい。その概要は、卓吾は家系的に(自由な

商人層の家系)地主的発想の伝統を持たなかったという点と、官僚としての俸給に終始支えられた一生を送ったという点と、

卓吾の周辺は脱世俗的雰囲気が濃厚であったという点である。


 
それに対して東林派人士は、地主出身という階級的立場から
(注38)、商品経済の進展やそれに基づく

佃戸層の地位向上などといった、いわば時代の大きな転換と呼ぶことができる現象を背景とした里甲制的

な農村支配体制の崩壊の中で、民生安定を目的とするとはいえ、むしろ、そのための手段そのものを問題

とせざるを得なかった。そのような彼らにとって、先に述べたような李 卓吾の考え方は、士大夫層の安易な

現実迎合(神宗万暦帝とその私的権力機関である宦官一派の専横に対してのもの)を促進する影響力の

大きな危険思想であったのだと考える。

 張 問達(ちょうもんたつ)が看取し把握した李 卓吾思想の本質的な危険性とは、まさに上のような理解を

通して問題とされる彼の指向した政治的構図と、その指向の仕方――彼にとっての現実を中心にすえた一

つの手段としての考え方と、その士大夫層への影響力であった、とここでひとまず結論づけたい。

 
また、高級官僚予備軍であり、世論形成の中心ともみなされる生員
(注39)層と、彼らに対する李 卓吾の

思想営為の影響に関しては、第二節・第三節の馮琦(ふうき)・顧 炎武の研究において言及する。


(注38)
地主出身という階級的立場

 砿税
など皇帝による収奪と並行して、民衆からは抗租(隷属的小作人の佃戸<でんこ>が地主に対して起こした反乱)

・奴変(奴隷の反乱)という板挟みの状況で、彼らは自分たちの指向する政治的構図の達成に自らの存亡をかけていた。

このことを彼らの階級的立場とする。

(注39)生員

 明朝と清朝で院試(国子監が実施する試験)に合格し、科挙の郷試(地方試験)の受験資格を取得した人。彼らは実質

的に士大夫の一角を担い、「秀才」と美称された。


 それでは次に、上の結論を大前提として、礼科都給事中張 問達による李 卓吾弾劾の上奏文と、それを

聴許して神宗万暦帝が下した勅旨を、『明実録』から見てみよう。

  乙卯礼科都給事中張 問達疏劾李贄壮歳為官晩年削髪(乙卯<おつぼう。万暦30年=1602年>に、

  礼科都給事中の張 問達が李贄を弾劾して述べるには、「李贄は壮年には官吏であったが晩年には、

  剃髪してしまった)。近又刻蔵書焚書卓吾大徳等書流行海内惑乱人心(しかも近年、『蔵書』・『焚書』・

  『卓吾大徳』
<注40>などの書物を刊行し、それらは世間に広く流行して人心を惑乱している)。

  以呂不韋李園為智謀以李斯為才力以馮道為吏隠以卓文君為善択佳偶以司馬光論桑弘羊欺武帝為

  可笑以秦始皇為千古一帝以孔子之是非為不足拠(呂 不韋
<注41>・李園<注42>を智謀者と言い、

  李斯
<注43>を才力ある者と言い、馮道(ふうとう<注44>)を吏隠と言い、卓文君<注45>のことを

  善く佳偶(よい配偶者)を選んだ者と言い、司馬 光
<注46>が『桑 弘羊<注47>は、武帝を欺(あざむ)

  いていた』と論じているのを笑うべしと言い、秦の始皇帝を千古の一帝と言い、孔子の言葉を従うのに

  は足りないと言っている)。狂誕悖(はい)戻未易枚挙大都刺謬不経不可不燬(き)者也尤可恨者寄居

  麻城(まじょう)肆(し)行不簡與無良輩遊于庵拉妓女白晝(はくちゅう)同浴勾引士人妻女入庵講法至

  有携衾枕(きんちん)而宿庵観者一境如狂(とりわけ憎むべきことは、麻城に寓居して慎みもなく放肆

  <ほうし>な行いにふけり、不良連中と寺院で付き合い、妓女<ぎじょ>を連れてきて真っ昼間から

  一緒に入浴し、士人の妻や娘を誘惑して、自分の庵に連れ込んで法を説き、果ては布団や枕を持っ

  てきて泊まっていく妻女まで出てきたというわけで、この地方はまるで気狂い騒ぎになっている)。又作

  観音問一書所謂観音者皆士人妻女也(また『観音(かんのん)問』という書物を作っているが、その観音

  というのは全て士人の妻や娘なのである)。而後生小子喜其猖狂(しょうきょう)放肆(ほうし)相率煽惑

  至于明却人財強摟(ろう)人婦同于禽獣(きんじゅう)而不足䘏(若い者達は、その狂気を極めた勝手

  放題なのを喜んで、お互いに煽り立て惑わし合って、遂には公然と人の財物を奪い、人の妻まで横取り

  するなど、まるで獣も同然、しかも反省しようとはしない)。邇来縉紳(しんしん)士大夫亦有捧呪念佛奉

  僧膜拜手持数珠(じゅず)以為律戒室懸妙像以為皈依(きえ。帰依のこと)不知遵孔子家法而溺意于禅

  教沙門者往往出矣(い)(近頃、郷紳<地方の有力者>や士大夫<高級官僚>には念仏をとなえ、僧侶

  を礼拝し、手に数珠を持って戒律と心得、部屋には仏像を置いて帰依と心得、孔子の家法に従うことを

  知らずに、仏教に溺れる者が現れているのである)。近聞贄且移至通州通州距都下僅四十里倘(しょう)

  一入都門招致蠱惑(こわく)又為麻城之続(最近聞いた事だが、李贄は通州
<注48>に転居しているら

  しいが、通州は都からわずか四十里の近距離であるから、もし一度でも李贄が都に入って仲間を集め、

  人々を煽動・惑乱したならば、またもや麻城の二の舞になるであろう)。望勅礼部檄行通行地方官将李贄

  解発原籍治罪仍(じょう)檄行兩畿各省将贄刊行諸書并捜簡其家未刊者盡行焼燬(しょうき)揉毋令貽乱

  于(願わくば礼部に皇帝陛下より直接命令していただき、通州の当局に文書で通知し、李贄を原籍地に

  連行して刑罰を与え、また南北直隷<現在の河北省>及び各省の布政司<行政・財政を司った地方長

  官>に文書で通知して、李贄がまだ刊行していない著書の原稿を探し出して、全て焼却処分にし、そう

  することによって世間の人心に禍を生まないように」と述べている)。後世道幸甚得㫖李贄敢倡乱道惑世

  誣民便令厰衛五城厳拿治罪其書籍已刊未刊者令所在官司盡捜焼燬不許存留(これを皇帝が聴許して

  下した勅書には、「李贄は敢えて道徳を乱す教えを説き、世間を惑わし民をないがしろにした。よって五城 
 
  の厰衛<しょうえい。軍営>)に命じて李贄を逮捕させ、厳重に処罰させよ。その書籍は既刊・未刊を問わ

  ず各地の役人に捜索させ、一つ残らず全て焼却させよ)。如有徒党曲庇私臧該科及各有司訪參奏来並
  
  治罪(もし徒党の者が法を曲げて李贄をかばい、ひそかに李贄の書物を隠し持つことがあったら、役所や

  役人はその者を取り調べて上奏した上で、ともに処罰せよ」とある)。已而贄逮至懼罪不食死(早速、李贄

  は逮捕され、処罰を恐れて餓死した)。

 まず、張 問達による上奏文であるが、その全体から受ける印象は、過度とも思える卓吾憎悪の念の強さで

ある。しかしここで、『明史』「問達伝」中に「持議平允(へいいん。公平なこと)」、不激不情(冷静で感情的にな

らない)」とあるような彼の気質を想起し、先に述べた前提に立って、弾劾文を詳細に見てみると、そこに卓吾

の社会的抹殺とその徹底を意図する問達のアレンジや演出を看取することができる。



(注40)
『卓吾大徳』

 実在しない書物。偽書か、もしくは問達による「意図のある捏造(ねつぞう)」のどちらかであると思われる。


(注41)呂 不韋

 自分の愛妾がすでに妊娠しているのを知りながら、素知らぬ顔で秦の荘譲王にその女性を献上して目をかけられ、

王の死後はその子(実は自分の子)を秦王として立て(後の始皇帝)、それを補佐して秦の中国統一の基盤を築いた

時代の宰相として権勢を誇った人物。

 
(注42)李園

 戦国時代の楚の宰相であった春申君に、まず自分の妹を献上し、彼女が妊娠すると計画通りに春申君を言いくる

めてその妹を楚王に献上させ、子が生まれてそれが太子(後の楚の幽王)となり、妹は王の后になり、李園も重用

されるに及んで春申君を殺した、という人物。


(注43)李斯

 初めは呂 不韋に取り入り、後に呂 不韋の後を継いで秦の中国統一後の宰相となり、焚書坑儒を始皇帝に実行

させ、郡県制の整備・全国化などを行った人物。
 

(注44)馮道

 諸国の興亡が相次いだ唐末から五代十国時代に、四つの王朝、10人の皇帝に仕え、20余年にわたって宰相の位

に就いていた人物。

(注45)卓文君

 夫の死後、父の許可なく、当時おちぶれた生活を送っていた司馬 相如と結婚し、貧しかった彼のために居酒屋の

女などになったりした女性。


(注46)司馬 光

 北宋の神宗の時、御史中丞(官吏監察機関の副長官)となり、王 安石
の新法に反対して去った人物。次の皇帝

哲宗の時代の初めに宰相になって、王 安石の新法で民に害があるものをことごとくやめて旧法に戻した。『資治通

鑑』は、彼の名著として知られる。


(注47)桑 弘羊

 前漢の時代の商人の子。武帝による塩・鉄・酒の専売政策が実施された時に官僚になり、御史大夫(官吏監察

機関の長官)
に昇進して、均輸法・平準法や塩・鉄・酒の専売政策の担い手になった。これらの政策に対する批判

に答えたのが「塩鉄論」である。彼は自分の一族・子弟の官位就任を図ったが、商人出身ということで果たせず

謀反を起こして殺された。


(注48)通州

 州(地方行政単位)の名前。問達の弾劾文中に、「通州距都下僅四十里」とあるように、北京に近い土地。


 弾劾文の中で、その理由として問達が挙げているものを一つずつ検討してみよう。

 ① 『蔵書』の内容とその歴史観

  「以呂 不韋(りょふい)李園為智謀…以孔子之是非為不足拠」の部分である。

  ここで挙げられている呂 不韋・李園・李斯(りし)・馮道(ふうとう)・卓 文君・桑 弘羊(そうこうよう)

 ・始皇帝といった人物は、実際『蔵書』の中ではどのように扱われているのだろうか。

  呂 不韋・李園については、『蔵書』の世紀列伝総目では智謀名臣に列せられている。卓吾によ

 るこの二人についてのコメントはないが、智謀名臣論といった記述があり、その内容は先に引用

 した通りである。

   李斯は、総目で才力名臣に列せられている。卓吾のコメントはなく、才力名臣についても論は立

 てられていない。そして馮道は吏隠外臣に列せられ、卓吾のコメントは先に引用している。吏隠外

 臣論に関しては特に問題にする記述はされていない。

   卓文君は、『蔵書』の中でその名前を挙げて取り扱われてはいない。総目中で文学門・詞学に

 列せられている司馬 相如
(注49)についての卓吾のコメントで次のように述べられている。

    方相如之客臨邛(りんきょう)也臨邛富人如程鄭卓王孫等皆財傾東南之産而目不識一丁令

    雖奏琴空自鼓也誰知琴心(相如が臨邛<四川省の都市>に客として寓居していた当時、臨

    邛の富豪である程鄭と卓 王孫
<注50>は、いずれも東南の産物を傾けるほどの財産を持っ

    ているにもかかわらず人物の価値を鑑定する見識が全然なく、たとえ琴の演奏を聴いたとし

    ても、ただぼんやりしているだけでその素晴らしさなど全く解りはしなかった)。其陪列賓席者

    衣冠済楚亦何偉也空自見金而不見人但見相如之貧不見相如之富也(その賓席に連なる人

    達も、きちんとした衣服や冠は何とも見事でありながら、ただ財力ばかりに注目して人物を見

    分ける能力がなく、相如の貧しさを見るばかりで、その才能の豊かさは解らなかった)。不有

    卓氏誰能聴之然則相如之卓氏之梁鴻也(もし卓氏<卓 文君。注50の卓 王孫の娘>がいな

    かったら、誰が彼の琴の音の素晴らしさを聴き分けただろうか。つまり相如は、卓 文君にとっ

    ての梁鴻
<注51>だったのだ)。
  
    桑 弘羊は富国名臣に列せられ、卓吾のコメントは無いものの、功業儒臣に列せられている司

   馬 光(北宋末、王 安石の新法に反対した旧法党の中心人物。『資治通鑑』の著者)伝について

   の卓吾のコメント中や、富国名臣論中にかなりのウエイトを有して述べられている。その二つに

   ついて、順を追って見ていく。

    嗚呼光謂安石不暁理財可也(ああ、司馬 光が「王 安石は理財のことを解っていない」と評価

    したのはよいだろう)。而謂不加賦而足不過設法陰奪民利其害甚於加賦以此謂桑 弘羊欺武

    帝之言則可笑甚矣(しかし「増税しなくとも国家財政が成り立つというのは、新法を設けてひそ

    かに民の利益を奪うことになるだけで、その弊害は増税することよりも大きい」と言い、このこと

    を「桑 弘羊が武帝を欺いた言葉(と同じ)」だとした
<注52>のは、とても滑稽である)。夫武帝

    豈易欺者哉(そもそも武帝ともあろう人物が、どうしてたやすく欺かれることがあるだろうか)。

    此桑 弘羊均輸之法所以為国家大業制四海安辺足用之本不可廃也(これ<富裕な大商人を

    抑えること>こそ桑 弘羊によって実施された均輸法
<注53>が、国家の大事業であり、四海

    を制して辺境を安定させるための方策として廃止してはいけない理由である)……。武帝之雄

    才如何哉甚矣孝武之未可以軽議也(武帝の雄才がどれほど優れていたかは別にして、これ<

    桑 弘羊と彼が担った諸政策―均輸・平準法、塩・鉄の専売>を軽々しく非難すべきではないこ

    と<先に紹介した司馬 光伝についての卓吾のコメント中にあった「桑 弘羊欺武帝之言則可笑

    甚矣」参照>は確かである)……。嗚呼桑 弘羊者不可少也(ああ、桑 弘羊のような人物こそ、

    欠かすことのできない人物である)。

     秦の始皇帝は、『蔵書』総目で混一諸侯(ひとまとめにした諸侯)に列せられていて、卓吾によ

    るコメントはその総目において次の一言、

    始皇帝自是千古一帝也(始皇帝は、千古の歴史において特別に優れた皇帝である)。

    とある。


(注49)司馬 相如

 臨邛(りんきょう)の富豪である卓 王孫の娘の文君に琴の演奏で挑み、ついにこれを娶(めと)った。武帝の時、

その文才を認められて官僚となり、彼の作る詩は、漢・魏・六朝時代の文人の模範になった。

(注50)程鄭と卓 王孫

 両者ともに四川省臨邛に住み、冶金(やきん)・鎔鋳(ようちゅう。金属を溶かし、鋳型に容れて器物を作ること)に

よって巨万の富を築いた。
 
(注51)梁鴻

 後漢の人。多くの名士達が自分の娘を嫁がせようとしたが、彼は拒絶して応じなかった。同じ県にいた孟氏の娘

(孟光)は大力の醜女(しこめ)で30歳になってまだ嫁がなかったが、父からその理由を問われると、「賢なること梁

伯鸞のごとき者を得んと欲するなり」と答えた。梁鴻はそのことを聞いて孟光を娶り、書物10余篇を著した。


(注52)「桑 弘羊が武帝を欺いた言葉(と同じ)」だとした

 司馬 光と王 安石の論争で、王 安石が「国用の足らざる所以(ゆえん)は、いまだ理財をよくすること得ざるをもっ

てなり……理財をよくせば、賦を加えずして国用足らん」としたのに対して、司馬 光はこれに反駁して、「天下いず

くんぞこの理あらん。天地生ずるところの財貨百物、民に在らざれば官に在り。かの法を設けて民を奪うは、その

害、すなわち賦を加うるより甚だし。これ蓋(けだ)し桑 弘羊の武帝を欺くの言なり」とした(『宋史』司馬 光伝)

(注53)均輸法

 桑 弘羊の立案した新しい経済政策の一つ。各郡国に均輸官を設け、その土地の特産物を租税代わりに納付さ

せ、これを官の手で他の郡国・都に転輸し、時価に平均して売却する貨物流通・物価調整の方策。


   卓吾弾劾の要点の一つである『蔵書』の特徴は、歴代の特に功績のあった皇帝をピックアップ

  して述べていることの他に、それを補佐した大臣、その大臣を補佐した名臣、その下で学問によっ

  て政策に参与した儒臣、武によって参与した武臣、またそれらの周囲で諸王や外戚の立場から関

  与した親臣や近臣、さらにその外から目立たないながらも功を上げた外臣と歴代の政治家を、この

  ように大臣・名臣・儒臣・武臣・親臣・近臣・外臣というランクやグループに分類し、さらにそれを、例

  えば名臣について言えば、経世名臣・富国名臣・諷諫(ふうかん)名臣・才力名臣・智謀名臣・直節

  名臣といったように、功業の内容によって諸人物を並べた点にある。この卓吾によるランク付けや

  グループ分けの規準や、随所に見られるコメントが独創的である
(注54)ことの他、そのグループに

  入れられたり、そこで述べられた諸人物の中に、道徳節義を何よりも(もちろん、卓吾が重要視する

  「一人之用」としての社会的有用性<特に民政安定を目指したそれ>よりもということ)重んじる儒家

  の伝統からは、決して許容できない人物が含まれていて、それが前記の呂 不韋(りょふい)・李園・

  李斯(りし)・馮道(ふうとう)・卓 文君・桑 弘羊(そうこうよう)・始皇帝であるのだ。

   このことから、特に司馬相如伝のコメント中から卓 文君を問題にしていることから、張 問達による

  『蔵書』の精読と、それに基づく弾劾文作成の工夫をうかがうことができる。

   中国では、歴史が単なる昔話ではなく今日の政治に対する評論という「政治を映し出す鑑(かがみ)」

  としての意味を持つ。そして実際、『蔵書』において卓吾の「史学は鑑戒(歴史を教訓や戒めを映し出

  す鑑として学ぶ)」とする立場は濃厚
(注55) であるのだ。

   このこともまた、問達の卓吾憎悪の一因であることに間違いないが、私はむしろ、次のように考えたい。

  すなわち、中国におけるこのような史観(史書観)に注目して、『蔵書』中の反名教的記述を弾劾文の冒

  頭に掲げたことに、卓吾憎悪をことさらに煽動しようとする問達の意図と、それを目論んだ冷静な工夫を

  読み取ることができるということである。
 


(注54)この卓吾によるランク付けやグループ分けの規準や、随所に見られるコメントが独創的である

 「李氏曰人之是非初無定質人之是非人也亦無定論無定質則此是彼非並育而不相害無定論則是此非彼

亦並行而不相
然則今日之是非謂予李 卓吾一人之是非可也謂為千万世大賢大人之公是非亦可也…

…」(人の是非にはもともと定質がないし、人の人に対する是非にも定質がない。定質がないから此の是と

彼の非が並んで存在しても支障は無いし、定論がないから此を是とし彼を非とすることが並び行われても

矛盾しない。とすれば今日の是非は私、李 卓吾一人の是非にすぎぬと言ってもよいし、千万世の大賢大人

による公定の是非だと言ってもよい)。『蔵書』世紀列伝総目前論より。

(注55)『蔵書』において卓吾の「史学は鑑戒(歴史を教訓や戒めを映し出す鑑として学ぶ)」とする立場は

濃厚

 『蔵書』巻40。儒臣伝、史学儒臣、司馬 遷伝のコメント中に、「春秋者夫子之史也筆削則削初未初未嘗案古

聖人以為是非」(『春秋』は孔子の史である。「筆すべきは筆し削るべきは削った」のであって、決して古聖人

をよりどころとして是非をたてたのではない。)とあるように、『史記』にも通じる〝春秋の筆法〟を賞賛してい

る。


 ② 麻城(まじょう)での醜聞と風俗紊乱(びんらん)のでっち上げについて

  「尤可恨者寄居麻城肆行不簡……至于明却人財強摟人婦同于禽獣而不之恤(とりわけ憎むべき

 ことは、麻城に寓居して慎みもなく放肆<ほうし>な行いにふけり……遂には公然と人の財物を奪い、

 人の妻まで横取りするなど、まるで獣も同然、しかも反省しようとはしない)」の部分である。

  「尤可恨者……(とりわけ憎むべきことは……)」としているが、その内容を見ると明らかに大きく事

 実をねじ曲げていることがわかる。記述のような風評は麻城から問達の耳に入っていたとはいえ、

 先に述べたように、『焚書』・『蔵書』を精読し、卓吾を十分に理解した上でその社会的抹殺を緊要と

 した問達にとって、このような風評が全くのでたらめであることは明白だったに違いない。

  よって、このような事実の歪曲にも、問達の意図と工夫を読み取ることができる。例えば問達による

 作り話であることが明白な部分としては、「又作観音問一書所謂観音者皆士人妻女也(また『観音問』

 という書物を作っているが、その観音というのは全て士人の妻や娘なのである)」が挙げられる。この

 歪曲は『焚書』巻4「観音問」に目を通して照らし合わせれば一目瞭然である
(注56)。このデタラメは、

 「拉妓女白晝同浴勾引士人妻女入庵講法至有携衾枕而宿庵(妓女を連れてきて真っ昼間から一緒に

 入浴し、士人の妻や娘を誘惑して、自分の庵に連れ込んで法を説き、果ては布団や枕を持ってきて泊

 まっていく妻女まで出てきた)」
(注57)や、「強摟人婦(人の妻まで横取りする)」といった邪(よこしま)で

 淫らな行いがあったことを本当らしくする為のものであろう。

  また①で述べたように、問達が敢えて卓 文君という女性の名前を弾劾文中に取り上げたことにも、

 それと同様の意図を感じる。



(注56)
この歪曲は『焚書』巻4「観音問」に目を通して照らし合わせれば一目瞭然である

 『焚書』巻4、観音問の内容を見ると、観音とは観世音菩薩(救いを求める人の心に応じて千変万化する菩薩)のこと。

(注57)拉妓女白晝同浴勾引士人妻女入庵講法至有携衾枕而宿庵


 この風評には、実は「火種」がある。それは、麻城の士人に梅 国禎という人物がおり、李 卓吾とも親交があったのだ

が、この人の娘が女性の身で出家して、梅 膽然(たんぜん)と称して李 卓吾に師事していたということ。溝口雄三『李

卓吾』(1985年、集英社刊「中国の人と思想」巻10)187~189頁に詳しい。


 ③ 近年の士人の仏教への帰依に対する非難と危機意識について

  「邇来縉紳士大夫亦有捧呪念佛奉僧膜拜……而溺意于禅教沙門者往往出矣(近頃、郷紳<地方

 の有力者>や士大夫<高級官僚>には念仏をとなえ、僧侶を礼拝し、手に数珠を持って戒律と心得、

 部屋には仏像を置いて帰依と心得……仏教に溺れる者が現れているのである)」の部分である。

  この非難は、卓吾自身に対してよりも、郷紳・士大夫に向けられているかのように述べられている。

 そしてここでは、郷紳・士大夫の仏教への傾斜だけが言われているが、問達が本当のところで危機を

 感じ、それを抑える必要性を痛切に感じていたのは、先に述べたように、自分達(東林派人士)の指

 向する、というより指向せざるを得ない政治的構図の実現を妨げ、現実の政治状況―宦官一派の勢

 力伸長により官僚機構の枠からさえも逸脱してしまった皇帝の私権力むき出しの専制政治に、形だ

 けにしろ似通った卓吾の指向する(と受け取ることのできる)政治的構図(それを展開する思想営為

 そのもの)が、安易な現実追従の意識を郷紳・士大夫に抱かせる、という危険性である。

  そのような問達の本心は、彼が(すなわち東林派官僚が)現時点で直接的に対峙している、皇帝・

 宦官一派には隠さなければならない。しかしそんな状況の内にあっても、卓吾の社会的抹殺は先に

 述べた意味で緊要であるので、皇帝・宦官一派(非東林派)との卓吾批判の共通項として、近年の

 郷紳・士大夫の仏教への傾斜に対する卓吾の思想営為の影響のみを弾劾文中に取り上げたので

 あろう。あたかも卓吾が「共通の敵」であり、そこでは東林派と非東林派が歩み寄れるかのような

 演出……。

 ④ 都(北京)が麻城の二の舞になることを防ぐということについて

  「近聞贄且移至通州……招致蠱惑又為麻城之続(最近聞いた事だが、李贄は通州に転居している

 らしいが……李贄が都に入って仲間を集め、人々を煽動・惑乱したならば、またもや麻城の二の舞に

 なるであろう)」の部分である。  

  実際卓吾は、弾劾前年の万暦29年(1601年)2月に、知己である馬 経綸
(注58)に伴われて通州北

 部の経綸の故郷に行き、ここに寓居して『易』に取り組み、既刊の自著『易因』を改訂して『九成易因』

 を著している
(注59)

  この記述は②の麻城での醜聞・風俗紊乱に関連して、単純に在都の中央官僚の危機意識を煽るも

 のであろう。



(注58)
馬 経綸

 『明史』巻234に列伝がある。

(注59)既刊の自著『易因』を改訂して『九成易因』を著している

 鈴木虎雄「李 卓吾年譜」(1934年、『志那学』第7巻2・3号所収)下編2頁参照。


 次に、神宗万暦帝による卓吾弾劾文聴許の勅旨を、上のような弾劾文の解釈を踏まえて見ていこう。

ここで問題にしたいのは、神宗と問達がそれぞれ勅旨・弾劾文の中で使用している、民を示す言葉の

内容についてである。

 まず勅旨の中の「惑世誣民(世間を惑わし民をないがしろにした)」の「民」、そして「如有徒党曲庇

(もし徒党の者が法を曲げて李贄をかばい)」の「徒党」であるが、これらを見ると神宗は、両者を特に

区別して使用していないことに気がつく。つまり両者が表す「民」とは、「里甲制的体制によって地主・

佃戸の区別なく一列に皇帝の民とされたあの「里甲制的民」ということになる。

 それに対して弾劾文の中で問達の言う「惑乱人心」の「人心」、「與無良輩遊于庵院(不良連中と寺院

で付き合い)」の「無良輩」、「後生小子喜其猖狂放肆(若い者達は、その狂気を極めた勝手放題なのを

喜んで)」の「後生小子」、「邇来縉紳士大夫亦有捧呪念佛(近頃、郷紳や士大夫には念仏をとなえ)」の

「縉紳士大夫」を見てみると、「人心」は単純に「君―臣―民」の区別なく全ての人間を表した言葉であ

って、ここで問題とはならない。注目したいのは、「無良輩」・「後生小子」の二つと「縉紳士大夫」とが

明らかにその言葉が指し示す「民」の内容を異にしているという点である。

 このことと先に述べた東林派人士の指向する政治的構図を考え合わせると、問達の民観―民を、自

分達の出身である地主・商人層といった富民(「縉紳士大夫」もこれに含まれる)を主軸として、「無良

輩」・「後生小子」といった下層の民(佃戸を含めたもの)をその支配下に置くところの縦列的なものとし

てとらえる―が、ここでも形を変えて表れていると言える。

 そして問達は上のような縦列的な民観に基づきつつも、先に述べたようにあくまでもその政治的ベク

トルは「民→君臣」であるということを、この弾劾文の記述からも読み取ることができるのである。

 それに対して神宗の勅旨からは、その当時の、皇帝の私権力むき出しの専制政治という現実の状況

を反映して、完全に「君→臣民」の政治ベクトルである政治的構図が読み取れるのである。


  第二節 馮琦(ふうき) 

 張 問達の上奏した弾劾文を聴許して、万暦帝が勅旨を下した。その勅旨に基づいて李 卓吾が投獄

されると、それに追い打ちをかけて当時の礼部尚書
(注60)馮琦が李 卓吾処分の決定を支持し、更に

一層思想統制を強化すべき旨の上奏(じょうそ。意見を述べた書状を君主に差し出すこと)文を出した。

この馮琦という人物も、『明史』の「馮琦伝」にその一端が明らかなように、三王並封の決定に反対して

王 錫爵(しゃくしゃく)
(注61)と争い、砿税に対しても激越な上奏文を提出し、陳奉(注62)ら税監の恣

(ほしいまま)にする行いを厳しく批判して帝都への召還を求めるなど、その反宦官的姿勢は終始変わ

らなかった
(注63)。彼は曾祖父の馮裕より代々進士合格者を輩出した名家の生まれで。一族は典型

的な郷紳であるが、彼の従兄弟叔父(いとこおじ)に当たる馮 子咸(ふう しかん)が地味の良くない田

数十畝の地主で、『顔氏(がんし)家訓』
(注64)に基づいて家を切り盛りし、自ら鋤を振るって治水に

努めたため、百余家の貧民が生活できたこと、また大凶作の年には、自ら提唱して宗族の兄弟や郷里

の有力者とともに貧民に粟(イネ科の穀物)を貸与したり、郷里の長老とともに郷約を作って地域の子

弟を教え導いたことなどを記述していること
(注65)などから、馮一族の気風は中堅地主層のそれと共

通であったことが分かる。


(注60)
礼部尚書

 礼部の長官であり、大臣。礼楽(国家の法や制度。原義は礼儀と音楽)・学校・儀式・衣冠といった事柄を司る。

(注61)
王 錫爵

 『明史』巻218に列伝がある。

(注62)
陳奉

 『明史』巻305に列伝がある。明の宦官。税を払わせるために、先祖の墓を暴いたり婦女を凌辱するなどかなり

あくどい徴税を行い、馮琦によって召還させられている。

(注63)その反宦官的姿勢は終始変わらなかった。

 
『明史』巻216「馮琦伝」より。

(注64)『顔氏(がんし)家訓』

 書名。全2巻。立身や家を治める方法について述べ、世間で誤って考えられていることを正し、子孫を戒めたもの。

(注65)『北海集』巻58より。


 そのような行状に明らかなように、馮琦もまた東林派人士の代表的な人物であり、その名は張 問達と

同じように「ブラックリスト」の東林党人榜(ぼう)に掲載されているのみならず、『東林列伝』
(注66)にも列

せられている。よって卓吾の弾劾時に「中央官僚として活躍中であり、かつ東林人士である」という立場か

らは、馮琦の卓吾理解と卓吾批判(憎悪)の質については、第一節で述べた張 問達のそれとほとんど一

致すると言える。しかし馮琦の研究は、第一節の張 問達研究の成果を補う形で、卓吾の思想営為を位

置付けるための新たな視点を私に見出させたのである。

 それでは最初に、馮琦の上奏文(これは、卓吾が逮捕されて自死した後に出されている
<注67>)を見

てみよう。引用は、馮琦の代表的著作である『北海集』による
(注68)


(注66)
『東林列伝』


 清の陳鼎による書。全24巻。

(注67)
馮琦の上奏文


 馮琦の上奏文は、万暦30年3月となっているが、卓吾の自死は同年3月15日である。よって、この上奏文が卓吾の

自死の後に出されたものなのか、前に出されたものなのかは明らかではない。しかし、上奏文中の「正李贄惑世誣民


之罪…其盛挙也」との言葉に、馮琦が卓吾の死を確認した後の語感が見られる。

(注68)
『北海集』巻38より。


  頃者皇上納都給事中張問達之言正李贄惑世誣民之罪盡焚其所著書(万暦30<1602>年閏2月乙卯>

  皇帝陛下は都給事中張 問達の上奏をお聴きになり、李贄が世間を惑わし民をないがしろにした罪を正

  し、その著書をことごとく焼かれあそばした)。其崇正闢邪甚盛挙也(その正しいことを尊び、邪悪なこと

  を退ける処置は、まさに盛挙であると言わねばならない)。臣竊惟国家以経術取士自五経四書二十一

  史通鑑性理諸書而外不列於学官而経書伝注又以宋儒所訂者為準(臣下の私が思うのは、国家が工夫

  して有為な人材を選出する為に必要なことは、「四書五経」や「二十一史(『史記』から『元史』までの中

  国歴代の正史21書のこと)」「通鑑(『資治通鑑』のこと)」、性理学の書物以外は、役人の学ぶものから

  外してしまい、経書の注釈については宋代の儒学者の定めたものを標準とするということである)。此即

  古人罷黜百家独尊孔氏之旨(つまり昔の人は皆、諸子百家を退けて孔子の思想のみを尊重したのだ)。

  自人文向盛士習寖漓始而厭薄平常稍趨纎靡纎靡不已漸馳新奇新奇不已漸趨詭弁(人文が盛大にな

  ってから、知識人の風習はだんだん浅はかなものに変わり、平常であることを嫌い始め、やがて繊細に

  走り、それが高じて次に新奇に走り、それが高じて次に詭弁に走る)。始猶附諸子以立幟今且尊二氏以

  操戈背棄礼孟非毀程朱(初めは諸子百家に依拠して旗幟<きし>を鮮明にしていたのが、今はむしろ

  二氏<仏教の釈尊と道教の老子>)を尊崇して儒教に反逆し、孔子や孟子に背いて程朱<朱子学の

  土台を作った程顥(ていこう)と程頤(ていい)、朱子学を大成した朱子の3人>を非難・破棄している)。

  惟南華西竺之語是宗是競以實為空以空為實以名教為桎梏以紀綱為贅疣以放言高論為神奇以蕩軼

  規矩掃滅是非廉恥為広大取佛書言心言性略相近者竄入聖言取聖経有空字無字者強同於禅教語

  (ただひたすらに南華<『老子道徳経』>・西竺<西方の天竺=インドの仏典>の言葉を押し戴くことに

  よって実を空とみなし、名教<官学である朱子学>を桎梏<足かせ>とこき下ろし、風紀や規範を病的

  なものと考え、放言したり高論したりすることが神聖で価値のあることと心得、自制することをないがしろ

  にして価値や恥を知る心を掃き捨てることが全ての人間に大切などと言い、仏教書に人の心や人間性

  について述べられているのを見たらすぐにそれらに似たものを取ってきて、聖人の言葉に紛れ込ませ、

  儒教書に空とか無について述べられているのを見たらすぐにそれらを禅と同じであるとこじつける)。

  道既為踳駁論文又不成章(その言うところの道がすでに支離滅裂であることに加えて、その文章も全く

  体をなしていない)。世道潰於狂瀾経学幾為榛莽(世の中に行われるべき儒教道徳は狂い乱れて潰滅し、

  儒教の教えはほとんど雑草に等しいくらいに貶められているのである)。臣請坊間一切新説曲議令地方

  官雑焼之(私がお願いしたいのは、一切の新説や曲解した考え方の書物は地方官に命令してこれを一

  律に焼却処分にすることである)。生員有引用佛書一句者廩生停廩一月増附不許幫補三句以上降黜

  中式墨巻引用佛書一句者勒停一科不許會試多者黜革伏乞天語申飾断在必行(そして一句たりとも仏

  教書から引用する者は、給費生ならば1カ月の給費停止とし、定員外の生員<科挙合格を目指す学生>

  には給費の取得を許さず、三句以上を引用する者は生員の身分を剥奪し、合格した答案で仏教書から

  一句でも引用した者は受験を一回禁止し、それに加えて会試<中央で行われる試験>を受験しに行く

  ことを禁じ、多く引用した者は受験資格そのものを剥奪することを)。自古有仙佛之世聖学必不明世運

  必不盛(古来、神仙思想や仏教が広く信仰されている時代には、聖学としての儒学は明らかとは言えず、

  世の中もまた盛んであるとは言えない)。即能實詣其極亦與国家無益何(すなわち、真にそれらの神仙

  思想や仏教の道を極めたとしも、国家にとっては何も益するところがないのである)。況襲咳唾之餘以自

  蓋其名利之跡者乎(ましてや、神仙思想家や仏教者の咳<せき>や涎<よだれ>の余りを踏襲して、

  自分の名誉と利益を求める気持ちを隠そうとする者達ときたら論外である)。夫道術之分矣自西晉以来

  於吾道之外別為二氏自南宋以来於吾道之中自分兩岐(そもそも、思想が学派に分裂するすることはこ

  れまでも長く行われてきていて、西晋以来、我が国の儒学の道の外に別に二氏<釈尊と老子>があり、

  南宋以来になると我が国の儒学の道そのものが二つに分かれている<朱子(朱熹)と陸 象山>)。又其

  後則取釈氏之精薀而陰附吾道之内又其後則尊釈氏之名法而顕出於吾道之外(更にその後、仏教の奥

  義を取って密かに我が国の儒学の教えに付け加え
<注69>、更にその後は、仏教の教えを尊んで公然

  と儒学から外れている者も出ている
<注70>)。非聖取執中建極群工一徳同風世運之流未知所届(聖

  なる天子である皇帝陛下が大切な教えを取り出し明示することにより、群臣が一つの同じ徳を信じるの

  でなければ、世の中の向かう方向がどんな悪い結果になるか計り知れない)
(注71)


(注69)更にその後、仏教の奥義を取って密かに我が国の儒学の教えに付け加え

 顧 炎武の『日知録』巻18にも、この上奏文が掲載されている。そこでは、ここに割り注として「如陳自沙

王 陽明」とある。


(注70)更にその後は、仏教の教えを尊んで公然と儒学から外れている者も出ている

 
顧 炎武の割り注には、「如李贄之徒」とある。


(注71)訳は、島田虔次『中国に於ける近代的思惟の挫折』282~284頁を、一部分かり易くしたもの。


 冒頭に掲げられた神宗万暦帝による卓吾処分の支持についての短い記述は、全体の中でその占める

ウエイトが小さい。この上文の趣旨は特に「生員有引用佛書一句者廩生停廩一月増附不許幫補三句以

上降黜中式墨巻引用佛書一句者勒停一科不許會試多者黜革伏乞天語申飾断在必行
生員有引用佛書一

句者」と述べて科挙の答案に仏説を引用することの禁止を要請しているように、あくまで思想統制強化の

要求であることは論をまたない。よってこの記述は、先の張 問達による卓吾弾劾の上奏文の内容と比較

すると、「卓吾への憎悪」はあまり伝わってこない。しかし我々はこの上奏文が、卓吾自死の直後(逮捕の

翌月、獄中での自死の同月)に
出されていることを見落としてはならない。卓吾の社会的抹殺の第一段階

は、卓吾の投獄と自死をもって終わった
(注72)。そして次のステップは、卓吾の影響(先に述べたように、

当時の士人層に現実の安易な受容を促し、東林派人士の指向する政治的構図の実現を妨げる危険性)

の根絶であるのだ。


(注72)
卓吾の投獄と自死をもって終わった


 私は、張 問達や馮琦などの弾劾側が、卓吾を獄中で死なせる(つまり、生きて再び社会復帰させない)こと

を意図していたと考える。なぜならば、卓吾自死の直後に、卓吾と同列にみなされていた紫柏達観が卓吾と

同様に異端として弾劾され、翌年には逮捕され刑死していることから推測できるからである。

 達観は、明末三大僧侶の一人。



 
これは、先に弾劾文の内容について考察した②において述べた「邇来縉紳士大夫亦有捧呪念佛奉僧

膜拜……而溺意于禅教沙門者往往出矣(近頃、郷紳<地方の有力者>や士大夫<高級官僚>には念

仏をとなえ、僧侶を礼拝し、手に数珠を持って戒律と心得、部屋には仏像を置いて帰依と心得……仏教

に溺れる者が現れているのである)」
という記述の解釈と重なるものである。そしてそのように考えると、

やはりこの馮琦による、表面上は単なる思想統制強化の要求と受け取ってしまいがちな上奏文も、その

標的とするところは卓吾とその思想営為であったと言える。つまり、馮琦もまた、卓吾の思想を真に理解

した上で、その本質的な危険性を十分に把握して、卓吾の社会的抹殺とその徹底を企図した一人であっ

たのである。

 それでは次に、上のような上奏文の解釈を補強するために、『明史』「馮琦伝」を詳細に見ていきたい。

これによって今度は馮琦を水先案内人として、卓吾弾劾当時の東林派人士の置かれた政治状況・立場

について考察する。馮琦は、張 居正が政治を取り仕切っていた時期の中頃に、若くして進士(科挙=官

吏登用試験合格者の称号)となり、初めはその文才によって編集(国史を作成する役人)となり、『大明会

典』の集成を担当している(「年十九、挙万暦五年進士、改庶吉士、授編修。預修会典成」)。また張 居正

没後には、三王並封議起(万暦二十一年<1593年>)までに庶士(太子に属した役人)となり、詹事(皇后・

太子の家事を司る役人)に進み、翰林院(学者などを招いて詔勅の文章を作成する官僚の役所)で働いて

いる(「歴庶士。三王並封議起……進少詹事、掌翰林院事」)。その後、「遷礼部右侍郎、改吏部」と、政治

の表舞台に進み、万暦二十七年(1599年)に、かなり激越な反砿(こう)税の上奏文を出している
(注73)

そして、「尋転左侍郎、拜礼部尚書」して、万暦三十年(1602年)の卓吾弾劾の時を迎えるのである。


(注73)
かなり激越な反砿(こう)税の上奏文を出している

 
先に記した
(注63)参照



 
こうして見てゆくと馮琦は、張 居正
執政時には史書関係の官僚を務め、さほど政治には関与せず(実は

馮琦の意思だったのかもしれない)、張 居正没後には側近として神宗の近くにいる
(注74)。おそらく初の

砿税(万暦24年<1596年>)前に翰林院から離れて礼部侍郎となり、いよいよ東林派人士としての活躍

を始めていると考える。そして万暦30年(1602年)、卓吾弾劾(同年2月)の直前に、朝廷では次のような

事件が起きている。それは『明史』「馮琦伝」中の「三十年、帝有疾、論停
砿税
、既而悔之。」という記述の

内容であり『明史』巻218「沈 一貫
(注75)伝」に詳しいのでそれを見てみよう。


(注74)
張 居正没後には側近として神宗の近くにいる

 このためか、馮琦の反砿税の上奏文中に、「陛下欲通商、而彼(宦官のこと)専困商陛下欲愛民、

而彼専害民。」とあるように、皇帝ではなく宦官のみを攻撃の対象としているもどかしさを感じる。


(注75)
沈 一貫

 
『明史』
巻218に列伝あり。官は万暦帝の治世中、戸部尚書・部英殿大学士。皇帝に反砿税の諫言

(諫めること)を行っている。



 ……三十年二月……帝忽有疾。……俄独命一貫入啓祥宮……。帝曰、「……朕見先生止此(砿税)矣。」

(万暦30年<1602年>2月……神宗の病が急に悪化した。……皇帝は突然、一貫を啓祥宮の病床に呼び

寄せて<遺言として>、「……私は砿税を廃止する」と言った)。……是夕、閣臣九卿倶直宿朝房。……

中使捧諭至、具如帝語一貫者。諸大臣咸喜。翌日、帝疾瘳、悔之。中使二十輩至閣中取前諭、言砿税不可

罷、……一貫欲不予、中使輒搏頬幾流血、一貫惶遽繳入(その日の夕方に、閣臣九卿
<注76>達がそろ

って宮廷の部屋につめかけた。……中使<宦官>が<砿税を廃止するという内容の>詔書を奉じてやって

来ると、一斉に喜びの声を上げた。しかしその翌日、病が回復の兆しを見せると、皇帝は<昨日の言を>

悔やんで撤回を図り、<その意を体した>中使20数人が閣中にやってきて勅諭の返納を迫り、「砿税をや

めることはできない」と言った。一貫がそれを拒否すると、中使は彼の頬を殴りつけて血が流れそうにな

ったので、一貫はあわてて勅諭を返した)。時吏部尚書李戴、左都御史温純期即日奉行、頒示天下、……」

(時に吏部尚書の李戴(りたい)
<注77>や、左都御史の温純<注78>が詔書を即日天下に布告しようと

待ちかまえていた矢先の出来事であった……)。

 この事件による東林派人士を中心とした砿税廃止を願う士人層が味あわされた落胆と失望は、非常に大き

なものだったであろう。そして当時の馮琦は、九卿に含まれる礼部尚書であり、『明史』の「沈 一貫伝」に見ら

れるように、神宗が砿税廃止の詔勅を出した際には宮廷の部屋につめかけ、中使がその詔勅を持ってくると、

一斉に喜びの声をあげているのだ。

 列伝中に、「幼くして穎(えい)にして(才気が鋭いこと)、敏(さと)きこと人を絶す」と評されている馮琦が、

このような落胆と失望にあっても冷静に、この事件が及ぼすであろう影響について想像力を働かせ、その

対策を講ずることを決して忘れはしなかったであろうと思われる。そしてその影響とは、広く士人層に、消極的

な現実追従意識を芽生えさせたり助長したりすることである。よってそれを少しでも抑制するために、この事件

のわずか2・3年前に『蔵書』を刊行して、当時いわば流行のピークにあったであろう思想の担い手である卓吾

の緊急弾劾こそが、馮琦の思い至った対策であったと想像できるのである。


(注76)閣臣九卿

 閣臣とは、行政面で皇帝を補佐する内閣大学士のこと。その筆頭が、内閣総理大臣(首相)。九卿とは、

吏部尚書(人事)・戸部尚書(財政)・礼部尚書(教育)・兵部尚書(軍事)・刑部尚書(刑罰)・工部尚書(建設)・

都察院都御史(監察)・通政司使・大理寺卿。

(注77)李戴(りたい)

 
『明史』巻225に列伝あり。万暦年間に陝西按察使となり、行政においては寛大で、後に吏部尚書に出世する。

(注78)温純

 『明史』巻202に列伝あり。官職は戸科給事中と左都御史で、清廉・潔白をもって公務を務め、官僚の風紀を

正した。


 
また、当時の馮琦と張 問達という両者の間には、東林派人士としての交流に加えて、礼部の長と礼科の長と

いう職務上のつながりがあったことは言うまでもない。よってこのことから、次のような仮説が成立し得るのである。

それは、先の事件の影響がどういうものであるかを把握し、その対策を講じた上司である馮琦が、同じ東林派の

中央官僚としての、また彼個人としての政治的状況・立場から卓吾を危険視していたところの部下の礼科都給事

中(礼制に関する監察と上奏が仕事)である張 問達に、事件後時を経ずして李 卓吾弾劾の上奏を命令した。

そして、それに続く卓吾の逮捕と入牢、獄中での自死(これは馮琦にとっては誤算であり、彼は直接的に手を下

して卓吾を死に至らしめる形での刑死を意図していたであろう)と事態が推移した後で、当初の馮琦のプログラム

通りに、今度は自らが礼部尚書という官職の役割(礼制一般、ここでは特に学校・儀礼に関するもの)に基づいて、

卓吾追弾の一文を導入部分とする思想統制強化の上奏文を奏上しているという仮説である。

 これまでの卓吾研究では、卓吾弾劾の直接の契機については、弾劾2・3年前の卓吾による『蔵書』の刊行や、

卓吾の万暦29年(1601年)の通州への寄居といった事実に求めている。それに対して私は先の考察から、張 問

達をして卓吾弾劾の上奏文を書かしめたのは―もしくは、馮琦をして問達に卓吾弾劾を命令させたのは―同年

同月の「帝有疾、諭停砿税、既而悔之。砿税不可罷」という「期待させておいて、裏切られた」事件であって、『蔵書』

の刊行や卓吾の通州寄居などは、単なる弾劾文中の口実に過ぎないとする論を主張したい。

 次に問題として取り上げたいのは、馮琦の上奏文中、科挙の答案への仏説の引用を禁じ、引用した者には学費

の減給や身分剥奪などの処罰を行うといった具体的な思想統制を求める部分に見られる「生員」についてである。

生員とは院考という試験に合格した科挙合格者で、将来の高級官僚予備生である。また彼らは、官営学校の府

や州、県といった地方の学校に入学して、徭役(国家が民衆に強制した労働)を免除されるなどの特権を持つ身分

であった。次節で考察する顧 炎武が、その代表的著作の一つの『亭林文集』
(注79)において生員論を述べている。

その執筆年代は不明であるが、彼が執筆した当時の生員の置かれた状況は、卓吾弾劾当時とほぼ同じであること

が、次のことから推測される。それは先に紹介した『北海集』所収の馮琦の上奏文を、顧 炎武が自著の『日知録』

巻18「科場禁約」中にそのまま引用しているということである。そしてそこでは、馮琦による生員問題対策の効果と

限界について述べている(「此自り稍<ようや>く正と為る。然るに旧染既に深く、盡<ことごと>く滌<じょう>

すること能わず」)とともに、「未年に至るに、詭弁いよいよ甚しくなる。新学の興<流行>に、人々皆六経<儒学

の主な経書>を土あくたとなし、伝註<儒学者による解釈や注釈>を読まず」)とあるように、明末に再び悪化した

生員の名教(官学としての儒学<朱子学>)に対する態度を非難しているということである。

 それでは次に、その「生員論」から生員の状態を見てみよう。


(注79)
『亭林文集』

 顧 炎武の没後、門人の潘耒(はんらい)が編集して刊行したもの。全6巻。清の乾隆年間には「禁書」

として扱われている。



  合天下之生員県以三百計不下五十万人而所以教之者僅場屋之文然求其成文者数十人不得一通経知古今可

  為天子用者数千人不得一也(天下の生員全体の数は、各県300人として数えて、50万人を下らない。そして彼ら

  に何を教えるかといえば、科挙の受験のための作文のみである。しかしそれでさえ、まともに文章の作れる者

  は、数十人に一人も見あたらない。経書に通じ古今のことをよく知っていて、天子<皇帝のこと>の用に役立ち

  うる者となれば数千人に一人もいない)。而臨訟逋頑以病有司者……(しかもむやみに訴訟を起こしたり、いつ

  までも租税を滞納したりして、役人に迷惑をかける者ばかり……)。一得為此則免於編民之役不受侵於里胥

  (しょ)歯於衣冠得以礼見官長而無笞(ち)捶(すい)之辱(いったん生員になれば、庶民としての力役を免れ、

  町や村の胥吏にいじめられることもなく、士人の仲間入りをし、長官とも対等の礼で面会でき、鞭打たれる辱め

  を受けることも無くなるからである)。故今之願為生員者非必其慕功名也保身家而已……(だから、今の生員に

  なりたいと望む者は、必ずしも功名に憧れるからではなく、自分の身や家の保全を計るだけなのである……)。

  或至行関節触法抵罪而不止者其勢然也(生員の中には、関節<ひそかに有力者に便宜を計ってもらうこと>

  を行ったりして、法に触れ罪を犯す者まで現れてそれが後を絶たないのは、自然の成り行きとしてそうなってい

  るのである)。今之生員以関節得者十且七八矣……(今の生員は、有力者に便宜を計ってもらってその地位を

  得た者が、十人に七、八人にも達するであろう……)。今天下之出入公門以撓(にょう)官府之政者生員也倚勢

  以武断於郷里者生員也與胥吏為縁甚有身自為胥吏者生員也官府一佛其意則群起而関者生員也把持官府之

  陰事而與之為市者生員也(今の天下において、役所に出入りして政治をゆがめているのは生員である。その

  勢力をかさに着て町や村で勝手な振る舞いをしているのは生員である。胥吏達と縁故を結び、ひどい輩になる

  と自分自身が胥吏になったりしているのは生員である。政府が自分達の意に沿わぬことをすると、大挙して騒ぎ

  立てるのは生員である。政府の弱みを握って裏で取引するのは生員である)。前者譟後者和前者奔後者隨……

  (前の者が騒げば後の者がそれに付和雷同し、前の者が走れば後の者が無思慮のまま追随する……)。朋比

  膠固牢不可解書読交於道路請託編於官曹(生員同士の派閥的な結び付きが強く、それを崩そうにも歯が立た

  ない。彼ら相互間に往復する書簡が道路に行き交い、請託<内々で特別な計らいを依頼すること>が役所内に

  横行する)。其小者足以蠧(と)政害民而其大者至於立党傾軋(あつ)(小さいものであっても、民衆を害し政治を

  乱し、大きいものともなれば、勝手な政治的党派を立てて天下を乱しているのだ)
(注80)

 また、馮琦(ふうき)による別の上奏文中にある次のような記述からも、当時の生員の状態を知ることができる。



(注80)訳は、後藤基巳「蔵書抄」(1971年、平凡社刊『中国古典文学大系』57の『明末清初政治評論集』に所収)による。


  近来士習大壊一人有事群起(近年、生員の士習<人の上に立つ者としてのふるまい>がすっかり崩れてし

  まい、一人が事を起こすと群がって行動を共にする)。扛幫或挟制上司或侵損小戸或包攬銭糧或捏造歌謡

  掲官保肆(し)行無忌法紀蕩然(あるいは自分の上司に対してよってたかって圧力をかけたり、あるいは力弱

  い民衆の家を損壊したり、あるいは徴税請負人となって私腹を肥やしたり、あるいは歌謡を捏造<自分勝手

  に改変すること>し、官僚であることや役所の人間であることの威を借りて法規というものを平然と破っている)

  
(注81)

 そのような生員の状態を現出させたのは、生員の「名教(的に扱われている儒家思想)離れ」がその根本にある

として、そのことを非難したのが馮琦の上奏文であり、顧 炎武の『日知録』中の「科場禁約」であったのだ。そして

先に述べたように、馮琦の上奏文は、「あの事件(三十年、帝有疾、論停砿税、既而悔之。砿税不可罷)」が士人

層に及ぼす影響への対策の一環として、卓吾とその思想営為を標的としているという側面を持つ。それならば、

次のことも指摘することができるであろう。つまり馮琦は、先の二つの史料からうかがうことができる生員の状態

を現出させた―生員の名教に対する態度の悪化を促した―要因として、卓吾とその思想営為の影響を見定めて

いたというように、先の上奏文を解釈できるということである。

(注81『北海集』巻38、奏疏7首、為遵奉明旨開陳條例以維世教疏より。


 確かに卓吾の思想内容には、無思慮で没主体的な現状追随と共鳴行動を引き起こしやすい側面がある。そ

こから自分にとって都合のよい部分だけを取り上げるといった自分勝手な理解をされやすく、亜流の模倣者を

生み出しやすいということである。先に卓吾思想の「根底にあるもの」として提示した「夫天生一人、自有一人之

用、不待取給於孔子而後足也(人は天からこの世界に生まれ来て、一人ひとりが自分ならではの価値を持ち、

それを働かせて生きてゆく。誰か孔子のような偉い人に教われば十分であるということは、ないのです)。」とい

う一節などは、その代表であろう。

 馮琦は卓吾思想の理解とともに、このような卓吾思想の影響をも把握していたのである。しかも生員は将来

の高級官僚予備生であるとともに、世論の形成者という性格も併せ持っている。そういった意味でも馮琦が、

先に述べたような政治的見地(生員層の現実追従の実情)において、生員への卓吾思想の影響を危惧した

ということが言える。

 それでは次に、中国におけるカトリック布教の開祖マテオ=リッチ
(注82)に卓吾と馮琦のそれぞれが関わ

っているという事実から、卓吾と馮琦・張 問達・顧 炎武の思想的な「近さ」について述べよう。卓吾は、万暦

26~28(1598~1600)年に南京で三度リッチと面会していて、自著の『焚書』中の一書簡に、リッチに関して

次のように述べている。


(注82)
マテオ=リッチ

 中国明代におけるカトリック布教の開祖。1582年マカオに到着し、中国布教の緒についた。多くの読書人の友

を得て、1601年には北京での開教を行っている。



  ……是一極標致人也。中極玲瓏、外極樸実、数十人群聚喧雑、讐對各得、傍不得以其間鬥(とう)之使乱

  (彼<リッチ>は、まさに大きな器量を持つ人である。その精神は極めて玲瓏<あざやかで気高い>、外

  見は極めて質朴<飾り気がなく真面目>)。数十人が群れ集まって喧<やかま>しい時でも、会話のやり

  とりを損なうことはなく、近くにいる人がいくら割り込んで話を混乱させようとしても無駄である)。我所見人

  未有其比、非過亢則過諂(てん)、非露聡明則太悶悶瞶瞶者、皆譲讓之矣(これまでに自分<卓吾>の会

  った人達の中で、この人<リッチ>に比べられる人はいない。他者に対して傲慢過ぎたり逆に諂<へつら

  い>過ぎたりする連中や、聡明さを外に示し過ぎたり逆に無知過ぎたりする連中は、皆この人に及ばない)

  (注83)
。  

 また卓吾は、リッチに次のような詩を贈っている
(注84)


  逍遙下北溟 (逍遙して<気ままなそぞろ歩きで> 北溟を下り、)

  迤邐向南征 (迤邐<いり>として<長く蛇行して> 南征に向かう。)

  刹利標名姓 (刹利<さつり。仏教の寺院>に 名姓を標し、)

  仙山紀水程 (仙山<道教の本山>に 水程<水路の行程。船旅>を紀<しる>す。)

  回頭十万里 (頭<こうべ>を回<めぐ>らすこと 十万里)

  擧目九重城 (目を挙げて 見る九重の城)

  觀國之光未 (国の光を観ること 未<いま>だか?)

  中天日正明 (中天に日 正に明らかなり)

 この詩の内容から、卓吾のリッチに対する尊敬の念をうかがうことができるし、また二人の交友関係が決し

て浅薄なものではなかったことが分かる。そのことを裏付けるために、次にリッチの回想録
(注85)を見てみよ

う。


(注83)『焚書』巻1、「与友人」より。

(注84)卓吾は、リッチに次のような詩を贈っている

 『焚書』巻6、「贈利 西泰(マテオ=リッチのこと)より。

(注85)リッチの回想録

 リッチは死去する数年前から、北京での自己の中国布教に関する回想録を書き始め、未完で終わった。

デリア師という人物が1942年から『リッチ史料』の公刊を始め、この年の内に第1巻、49年に第2・3巻を出

したが、この巻1・2巻は、先のリッチの回想録の原文にきわめて周到な注を付けたものであった(溝口雄三

「マテオ・リッチと李 卓吾<『マテオ・リッチの回想録』より>」(1971年、平凡社刊『中国古典文学大系』55

『近世随筆集』所収)。



  ……この二人の読書人(卓吾と弟子の焦竑<しょうこう>
<注86>を示す)は、リッチを大歓迎した。こと

  に李 卓吾は大官達が彼に会いに行っても迎え入れなかったり、大官達に対して訪問を返さなかったりす

  るほど尊大横柄な人であったにもかかわらず、彼の方から先に会いに来てくれたということでリッチの友

  人達を驚かせた。……その後司祭が中国人達の慣習に従って訪問を返した時、彼は自分の仲間の他の

  多くの読書人達とともにリッチを迎えた。これらの読書人達は宗教のことについて散々に論じたが、李 卓

  吾は討論することも、またリッチに対して異議を述べることも望まなかったばかりか、我々のキリスト教(カ

  トリック)が真正の教えであるとさえ言った。……卓吾は自ら二つの扇子に二つの美しい詩を書いてリッチ

  に贈った。これらの詩は多くの人々の手で転写されたし。彼もまた自分の著書(『焚書』のこと)の中にそれ

  らの詩を掲載した。……彼はリッチの『交友論』を手に入れていたので、その写しをたくさん作り、それを湖

  広(長江中流域の穀倉地帯)にいる弟子達の所へ送り、この労作とその内容について大いに讃辞を述べ

  た。……劉 東星
(注87)は自分の息子達や李 卓吾とともに、リッチを一日中大きな親しみを込めて厚く遇

  したので、リッチはまるでヨーロッパのとても親しくて献身的なキリスト教徒達の中に自分がいるかのよう

  に思えた
(注88)

 しかし卓吾は、リッチとキリスト教を全面的に受け容れていたのではない。なぜならば先に紹介した書簡は、

次のように続けているからである。


  但不知到此何為、我已経三度相会、畢竟不知到此何幹也(ただ、一体何をしようとしてリッチは中国に来

  たのであろうか。自分はこれで三度面会したが、結局彼が何をしようとしているのかがよく分からなかった)。

  意其欲以所学易吾周孔之学、則又太愚、恐非是爾(あるいは自分の学ぶキリスト教をもって、我々が学ん

  でいる周公孔子の学<儒学>に替えようというのかもしれないが、もしそうだとしたら、これはあまりにも愚

  かしいことだ。おそらくそういうことはないであろうが)。


(注86)焦竑(しょうこう)

 
『明史』巻288に列伝あり。博識の学者として有名。卓吾にとって最も重要な知己(己を知る者。理解者)であり、

『焚書』と『続焚書』の二書を通じて、この焦竑に宛てて書かれた書簡が最も多い

(注87)劉 東星

『明史』巻223に列伝あり。工部左侍郎、兵部尚書を歴任。
 


(注88)リッチはまるでヨーロッパのとても親しくて献身的なキリスト教徒達の中に自分がいるかのように思えた

 
(注85)の「マテオ・リッチと李 卓吾」中の、矢沢利彦による訳より。


 つまり卓吾は、リッチの「一人之用」(夫天生一人、自有一人之用、不待取給於孔子而後足也<『焚書』巻1、

「答耿(こう) 中丞」より>。
(注25)参照)を尊重した上で、それと同じ地平でキリスト教を「真正の教え」としな

がらも、それが「吾周孔之学」と取って代わることは考えられない、としている。

 ここで卓吾の言う「吾周孔之学」の「吾」とは、中国におけるという意味ではなく卓吾自身を示している。つまり

「卓吾にとっての周孔之学」であり、これは先に述べたように証道(求道)的な儒「学」思想であり、卓吾が嫌悪

感を以て攻撃した名教主義(特定の教義や思想を、現実を無視して絶対的かつ機械的に適用しようとする教

条主義)的な儒「家」思想とは相容れない。キリスト教を通して道を証し求めるリッチの生き方を、ヨーロッパ人

である彼にとっての「一人之用」とみなし、それを証道の為の一つの手段としては認め尊重する(「真正の教え

である」)が、証道に替わる目的としてキリスト教を措定することは受け容れられない、と主張しているのだ。

 馮琦が卓吾と同じく、しかも同時期(リッチの布教は万暦29<1601>年北京にて始まる)にリッチと出会い、

彼がキリスト教を北京で伝道するに当たってそれを強く支援している
(注89)のであるが、私はこの事実に基

づいて次のように考えたい。つまり馮琦という人物は、名教としての儒家思想に反するものを全て否定したの

ではなく、それが自分達(東林派人士)の指向する政治的構図を妨げるものでないならば、またその政治的構

図を促すようなものであるならば、卓吾の主張する社会的有用性
(注90)や個人的「一人之用」を認めていた

のではないだろうか。そういった面が、卓吾と東林派人士の「思想的な近さ」と言えるのではないだろうか。そ

して次節で取り上げる顧 炎武が馮琦や張 問達らの東林派人士から受け継いだものこそが、民生を重視しつ

つ皇帝の独裁的権力を否定する政治的視点と、ここで述べたような社会的かつ個人的な実用主義である「経

世致用」の実学思想なのである。


(注89)
キリスト教を北京で伝道するに当たってそれを強く支援している

 『明末清初政治評論集』(1971年、平凡社刊『中国古典文学大系』57)の、後藤基巳による解説より。

(注90)馮琦は、リッチによるキリスト教伝道にどのような社会的有用性を期待していたのであろうか。

後藤基巳
は、「リッチの伝道による西洋文化(宗教と科学)の影響は、当代知識人に科学的思考法を

培わせたことの他に、反キリスト教的宗教思想陣営の反省および反抗の運動をも促した」(<
注89

から>)とされるのだが。



  第三節 顧 炎武
 
 顧 炎武(万暦42年~康煕21年<1613年~82年>)は明末に、政治的傾向の強い青年文人が集まった結社

である復社に学び、32歳(順治元年<1644年>)で明朝の滅亡を見ている。その後は反清抵抗運動に参加し、

清朝政権確立の後は最後まで任官せず、学問活動に打ち込んでいる。その学問は彼の生活体験に培われ、

その根底を六経(りっけい。儒家思想で重要視される六つの経典で、『詩経』『書経』『易経』『春秋』『礼記<らい

き>』の「五経<ごきょう>」に、『周礼<しゅらい>』を加えたもの)と聖人の道に求めた経世致用の学であり、

後の考証学(儒学の学び方の一つで、文献を扱うのに実証を重視するもの)の祖とされる。そしてその思想の

系譜は、東林派に属するのである。

 まず、顧 炎武が卓吾を名指しで非難している箇所を見てみよう。それは、「愚(ぐ。私)按ズルニ(思うに)古

(いにしえ)ヨリ以来、小人ノ忌憚(きたん。遠慮してはばかること)無クシテ敢エテ聖人ニ叛スル者、李贄ヨリ甚

ダシキハ莫(な)シ」という部分である。「小人之無忌憚」とは『中庸』の一節であり、「この小人とは普通の小人

のことではなく、異端で道を害(そこ)なう者のことで、その弊害として、彼らは人々を猖狂(しょうきょう)自恣

(じし)に墜(おち)いらせ、礼を偽(にせもの)とし、肆(ほしいまま)であるのを真とし、天下後世に少なからぬ

禍(わざわ)いを貽(おく)るものである」
(注91)と解釈されている。このことから、顧 炎武による卓吾非難

(憎悪)の一端をうかがうことができる。そしてこの顧 炎武の言葉は、第二節で取り上げた馮琦(ふうき)に

よる上奏文と同じく、『日知録』巻18に引用されている第一節で掲げた張 問達による弾劾文の付記として示

されているのである。

 つまり顧 炎武は、『日知録』巻18に、『明実録』から張 問達による李 卓吾弾劾の上奏文と、それを聴許して

皇帝が下した勅旨を引用(「李贄の条」)するとともに、馮琦の著作『北海集』と『明実録』から
(注92)、馮琦に

よる卓吾弾劾と思想統制強化の上奏文とそれを受けた勅旨を引用(「科場禁約」の条)していて、それと同時

に『亭林文集』中に先に示した「生員論」を設けているのである。このことの意味を、次に明らかにしたい。


(注91)
代表的東林派人士の馮(とう) 少墟(しょうきょ)による評。溝口雄三『李 卓吾』257ページより。


(注92)
『明実録』には、勅旨のみ掲載。『日知録』と『北海集』には、上奏文と勅旨の両方が掲載され

ている。


 顧 炎武が馮琦による上奏文を自著に引用したことと「生員論」を唱えたことは、科挙の受験資格を取得した

生員層が名教としての朱子学を軽んじている態度を厳しく非難するという意図に基づいた「タイアップ」であった

と言える。そしてそれは、次のような上奏文と「生員論」の明瞭な符号を見出すことで判然とする。

  ……臣下の私が思うのは、国家が工夫して有為な人材を選出する為に必要なことは、「四書五経」や「二十一

  史(『史記』から『元史』までの中国歴代の正史21書のこと)」「通鑑(『資治通鑑』のこと)」、性理学の書物以外

  は、役人の学ぶものから外してしまい、経書の注釈については宋代の儒学者の定めたものを標準とするという

  ことである
。……人文が盛大になってから、知識人の風習はだんだん浅はかなものに変わり、平常であることを

  嫌い始め、やがて繊細に走り、それが高じて次に新奇に走り、それが高じて次に詭弁に走る。……名教(官学

  である朱子学)を桎梏(足かせ)とこき下ろし、風紀や規範を病的なものと考え、放言したり高論したりすることが

  神聖で価値のあることと心得、自制することをないがしろにして価値や恥を知る心を掃き捨てることが全ての人

  間に大切などと言う
。……
その言うところの道がすでに支離滅裂であることに加えて、その文章も全く体をなし

  ていない(注93)


(注93)
訳は前掲と同様、島田虔次『中国に於ける近代的思惟の挫折』282~284頁を、一部分かり易くしたもの。


と述べている上奏文中の馮琦の言葉と、

  ……彼ら生員でまともに文章の作れる者は、数十人に一人も見あたらない。経書に通じ古今のことをよく知って

  いて、天子(皇帝のこと)の用に役立ちうる者となれば数千人に一人もいない。……それではどうすればよいか。

  今の生員は一切廃止したい。そして別の制度を作り、必ず「五経」全部によう通じているほどの者をそれに充てる

  ようにし、さらに「二十一史」と時事の問題とを学ばせた上で昇進させることにする。……国家が生員を採用して、

  経義・論・策・表・判(経義は経書の解釈、論は学術的論文、策は政治的論文、判は判決文)の試験を課したの

  は、彼らが六経の教えをわきまえ、時事の諸問題に通暁(つうぎょう)するようにと期待したからである。ところが

  今では、書坊(本屋のこと)が刊刻している義(経義の文章)を時文と称し、聖人の経典・先儒の注疏(ちゅうそ。

  注釈)や前代の史書などはうち捨てて読みもせず、そのいわゆる時文なるものを読む。時文は、科挙の試験の

  あるたびに変わったものが出版されるが、五尺の童子(子ども)でもそれを数十篇暗記していって少しく文章を

  変えて書けば、それですぐに功名が得られる(注94)


(注94)
訳は前掲と同様、後藤基巳「蔵書抄」(1971年、平凡社刊『中国古典文学大系』57の『明末清初政治評論集』に所収)による。


と述べている「生員論」中の顧 炎武の言葉の符号である。

 この「タイアップ」に、生員層が名教としての朱子学を軽んじている態度を厳しく非難するという顧 炎武の意図が

あることは先に述べたが、私はこの意図の深みに顧 炎武の卓吾非難(憎悪)の念が横たわっていることを推定する。

それは、顧 炎武が張 問達の卓吾への弾劾文を自著の『日知録』の同巻に引用していること、そしてそれに付記さ

れた顧 炎武の卓吾批判の言葉からそう考えるのだ。そして、次のように彼の文章が続いていることにも注目する。

  ……然ルニ厳旨ヲ奉ズルト雖(いえど)モ、其ノ書ノ人間(じんかん。世間、世の中)ニ行ハルルコト自若(じじゃく。

  もとのまま)ナリ。……天啓5年(1625年)9月、四川道ノ御史王 雅量ノ疏(そ。上奏文)ニヨリ、旨ヲ奉ホウズルニ、

  「李贄ノ諸書ハ怪誕ニシテ不経ナリ。巡視衙門(がもん。巡視して監察する役所)ニ命ジテ焚毀(ふんき。焼くこと)

  セシメ、坊間(世間、世の中)ニ発売スルヲ許サズ。仍(よ)リテ通行ヲ禁止スル」ト。而(しか)ルニ士大夫多ク其ノ

  書ヲ喜ビ、往往ニシテ収蔵シテ今ニ至ルモ未ダ滅セザルナリ。

 これは、卓吾の著作物がいまだに世間に流布し続けていることに対して、顧 炎武が強い憤りと危機感を表明し

ている記述である。つまり顧 炎武は、張 問達・馮琦の2人に続く自分自身の役割(使命)として、やはり卓吾の影響

の根絶を意図していたと推測することができる。

 顧 炎武による卓吾理解は、彼が卓吾とは非同時代人であったことと、彼が清朝に任官しなかった(直接的に政治

に関わらなかった)という2つの点で、張 問達・馮琦のそれとは性格を異にしている。彼は特に、卓吾の反儒「家」的

な儒「学」思想に対する近親憎悪的な反感を核としながら、卓吾の思想を明朝滅亡の要因の1つとして捉えていた

と思われる。彼が黄 宗羲(大宦官の魏 忠賢に弾圧されて獄死した東林派人士を父に持つ。民権を重視して「東洋

のルソー」と呼ばれた人物)とともに、明の遺臣として反清朝の軍事活動(郷里で義勇軍を組織)を積極的に行った

ことからもそのことがうかがえるのである。


  結び


 以上、その思想営為を十分に理解した上で李 卓吾を憎悪し非難した張 問達・馮琦・顧 炎武の3人について述べ

てきたわけであるが、それによってどのような新しい李 卓吾研究の知見が得られたのかをまとめてみたい。

 まず第1節では、張 問達の行状を詳しく調べることで、彼個人として、また東林派人士としての、卓吾弾劾に至る

までの、特に政治的状況・立場について明らかにした。そしてその考察を通して、中央官僚であり東林派人士である

問達の指向する政治的構図を把握し、その実現を妨害するものとして、卓吾の著作中のそれに関わる記述を逐一

指摘しながら、卓吾の指向した政治的構図を推定した。

 また、卓吾によるその指向の仕方が、東林派人士がその階級的立場(地主・商人といった富民層の出身)から、

民生安定(縦列的な民)を目的とするとはいえ、その手段である政治的構図そのものを何よりも問題としなければ

ならなかったことに対して、卓吾思想の根底にある「
夫天生一人、自有一人之用、不待取給於孔子而後足也

(人は天からこの世界に生まれ来て、一人ひとりが自分ならではの価値を持ち、それを働かせて生きてゆく。

誰か孔子のような偉い人に教われば十分であるということは、ないのです)
」という考え方から、民生安定(横列

的な民)という目的の前では、政治的構図というものは1つの手段に過ぎない、といった明末という時代から突出し

た合理性・民主性を有するものであったことを論じた。そしてそのような卓吾理解を前提として、問達による卓吾弾

劾の上奏文を読み込むことにより、卓吾の政治的な位置付けを試みた。

 第2節では、馮琦の行状と、彼による卓吾自死直後の卓吾弾劾・思想統制強化の上奏文の考察から、第1節で

明らかにした卓吾の位置付けを補強した。また、卓吾弾劾直前の宮廷での重大事件(「帝有疾、諭停砿税、既而

悔之」)が、馮琦・問達のコラボによる卓吾の社会的抹殺を意図する一連の上奏活動を引き起こせしめたのでは

ないかという新たな論を提示した。

 また、馮琦の上奏文から生員の問題(生員層の名教からの離反)を取り上げ、その上奏文を自著に引用してい

る顧 炎武の「生員論」を併せて読むことで、卓吾の思想が士人層のみならず、将来の高級官僚予備生であり世

論形成者という性格を持つ生員層に対しても政治的影響力(安易な現実追従の促進)を有していたことを明らか

にした。そして次に、卓吾と馮琦それぞれのマテオ=リッチと、そのキリスト教伝道活動に対する態度から、両者

の思想的な「近さ」(実用主義という合理性)を論じた。

 第3節では、顧 炎武が『日知録』の同巻(巻18)に、問達の弾劾文と馮琦の上奏文を共に引用していて、それ

ぞれの付記として、卓吾個人に対する「小人之無忌憚」といった激しい非難、そして卓吾の著作物の根強い流布

への憤りと危機感を表明していることと、同じく自著である『亭林文集』中の「生員論」は、1つの意図―問達・馮琦

に続く自分の役割(使命)として、卓吾の影響(特にその著作物の流布と、生員の名教離反)を根絶する―に基づ

いて、「タイアップ」された顧 炎武の著作活動であったことを推定した。

 以上で私の論文を終わるが、最後に、私が卓吾研究を通して抱き続けた(おそらく生涯、触発され続けるであろう)

卓吾思想のイメージについて少しく記したい。それは、彼の「夫レ天ノ一人ヲ生ズルニ、自ラ一人之用有リ」という

言葉に集約される人格主義のイメージである。そしてそれは私にとって、次のようなドイツの哲学者カントの言葉

と極めて親和的に結びつくものであった。「汝の人格に於ける人間性も、あらゆる他者の人格に於ける人間性も、

何時でも同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないように行為せよ」―。