授業№31 ルネサンス、宗教改革(ルター・カルヴァン)
T.Q.「『近代幕開け二つのR』とは? また、それぞれ人間の自由意志をどう考えたか?」
T.A.
二つのRのうち一つは、ルネサンスである。ルネサンスでは、人間の自由意志を人間が創造者に近づく手段
と考えた。また、もう一つのR=宗教改革は、人間は信仰を重視したり神によって予め救いが決定されている
という予定説の考え方を持つので、人間の自由意志を認めはしなかった。
2022(R4)年度
11月8日(火)
「人間」 ※( )内は授業担当者
私は助けて欲しい時だけ神に祈りますけど、(普通に)生活している中では「神なんていない」と思っています。(だから、これが)私の
自由意志です。
授業担当者のコメント:私は神や仏、その他「神的な存在」(サムシング・グレート「何かしら偉大な存在」と呼んでいます)を信じている
ので、助けて欲しい時はもちろん、普通に生活している中でも「神様はいる」と思っていますし、お寺や神社などでは
無心に手を合わせています。また私は、「自由意志」には批判的な意見を持っています。なぜなら、その「自由」や
「意思」に利己主義(自分本位)を感じてしまうからです。利他主義(自分も含めた他者全体を利する考え方)が
欠けているように思うのです。
1月16日(火) 3I倫理
「今日の授業」 ※( )内は授業担当者
スカートの話(古代と近代は人間中心のミニスカート<女性の足を隠さない>で、中世は神中心のロングスカート<女性の足を
隠す>)になって私がふと思ったことは、「これからは神が中心になるかも」だし、「人間のよさもないとだめだ」ということです。
(だから、)間を取って「ミディアムスカート」って単語が出てきました。
授業担当者のコメント:なるほど! 中世の+面(宗教的な考え方)と近代の+面(人間
ロングとミニの中間で「ミディアムスカート」という言葉が、めっちゃ、分かりやすいです。
「予定説」 ※( )内は授業担当者
「全ての職業は、その人の天職」という考え方が好きだと思いました。(また、)自分の(贅沢や欲望の)ために(会社が利益として
生み出した)お金を使うのではなく、資本(もとで。元手)に回す考え(事業の拡大や新しい機械の導入などにより、従業員数を増や
したり従業員の給料を上げたりする=経済成長)がすごいと思いました。
授業担当者のコメント:日本の思想の授業で登場した荻生徂徠(おぎゅうそらい)の「経世済民」(世を治め民を救うのが経済)という
考え方を思い出しますね。自分の仕事を「これは天職」と受け取って頑張ることや、経済の本来の目的って、
「世のため人のため」なんですね。「自分のため」が同時に「世のため人のため」だったら、最高だと思います。
1月18日(月) 3K倫理
「贖宥状」 ※( )内は授業担当者
贖宥状は、人をだまして利益を得るためのものだと知った。また、「聖書に書いてある」と言ってだましたとのことだが、なぜ(贖宥状
を)買う人が聖書の内容を覚えていないのかが不思議だった。
授業担当者のコメント:贖宥状は、「買えば救われて(=罪がゆるされて)天国に行ける。聖書にもちゃんとそのことが書いてある」と
宣伝されて売られていましたが、当時の聖書はラテン語(古代ローマの時代の言葉)で書かれていて、民衆には
読めなかったそうです。教会や司祭(神父)などの聖職者の言うことを、そのまま信じるしかなかったのですね。
今日の授業だけを聞くと、カトリック(旧教)よりプロテスタント(新教)の方が、圧倒的に人気がありそうだ。しかしそれなのに、
いまだにカトリック信者が多いのはなぜ?
授業担当者のコメント:お答えします。ルターやカルヴァンの批判を受けて、カトリック側も反省し改善したからです。批判する方も
反省・改善する方も、立派だと思います。
「疑問」 ※( )内は授業担当者
プロテスタントは主体性を大事にするということを、今日学びました。(しかし、)ならば何故、キリスト教では自殺を悪と考えるの
だろうと疑問に思いました。
授業担当者のコメント:お答えします。キリスト教の土台はユダヤ教で、預言者モーセの「十戒(じっかい)」の考え方が受け継がれて
います。その「10の戒め」の中に、「あなた達は、人を殺してはいけない」というものがあって、それが
「自分自身という人」にも当てはまるからです。「自分の命を大切にできない人は、他者の命も大切にできない」
という考え方は、ジブリの映画「ゲド戦記」にも出てきます。「『死んでもいい』とか『永遠に死にたくない』
とか、そんなのどっちでも同じ。アレンは1つしかない命を生きることを恐がっているだけよ」(テルーの台詞)。
「予定説」 ※( )内は授業担当者
「救いは神が予め決定しているのは嫌だな」と思った。なぜなら、救われない(天国に行けない)と決められているのに、頑張って生き
ても意味が無いと思ったからだ。
授業担当者のコメント:2つ説明します。1つ目は、この予定説が「贖宥状を買えば救われて天国に行ける」という間違った考え方を
ノックアウトして、キリスト教信者に「信仰そのものが大切だ」と思わせたということ。2つ目は、これは親鸞
(浄土真宗)の阿弥陀信仰と同じで、阿弥陀仏の本願(「罪人、特に罪を自覚している悪人を必ず救うという
阿弥陀仏の願い)を信じることで救われる=「自分が救われて天国に行くことは、予め決められている」と
信じて宗教的に生きることで救われるということです。
~番外編~
「スカート」
昔にミニスカが流行ったとは知らなかった。
授業担当者のコメント:ミニスカやロンスカやミディスカは、たとえ話(比喩)です。
2020(R2)年度
10月30日(金) 3C倫理
「カルヴァン」 ※( )内は授業担当者
カルヴァンが説いた予定説や神の栄光などの考え方が、すばらしいと思った。なぜなら、人は神を信じることができる(という点で、)すばらしい生き物だと
感じたからだ。
授業担当者からのコメント:「神の存在や神の大切さを信じることができる」のは、全ての
という良い心を持っているからなのではないでしょうか。それもまた、「人間にとっての自然」なのかもしれませんね。
「神」 ※( )内は授業担当者
神や宗教は世の中を良くするものでもある、ということが分かった。しかし、神を(お金で)売り、悪(いこと)に理性を使ってはいけないな、と思った。
授業担当者からのコメント:神を作ったのが人間なのか、人間を作ったのが神なのか、その両方なのかと考えたりします。神の不在については、神秘的で宗教的
な(科学では説明できないような)経験をすることがあるので、神は存在しないとは言えないと思います。あなたには、シンクロニ
シティ(意味のある偶然の一致)やセレンディピティ(偶然の幸運をつかみ取る力)のような経験はありませんか?
11月1日(日) 3K倫理 ※学校公開
「疑問」 ※( )内は授業担当者
カトリックとプロテスタントって同じ宗教なのですか? (そして、)もし同じなら、カトリック教会はよく聞きますが、プロテスタント教会はあまり聞かない
のはなぜですか?
授業担当者からのコメント:お答えします。まず最初の質問への答ですが、「同じキリスト
ランシスコ=ザビエルが日本で布教に成功したが、その後江
スト教イコールカトリックのイメージが定着した」です。
プロテスタントには個人主義(メンバー各人の考えを重視)のよさがあります。
「(憧れのレオナルド)」 ※( )内は授業担当者
私は小学生の頃から、レオナルド=ダ=ヴィンチに憧れていました。なぜなら、様々な分野で力を発揮したという所が、自分にとってうらやましくなった人物
だからです。
授業担当者からのコメント:彼はルネサンスの時代に活躍した「万能人」の代表です。彼
最大限に伸ばして力を発揮し、ピコ=デラ=ミランドラの言う「神に近い人間」になったんだと思います。
2019(H31→R元)年度
11月13日(水) 3K倫理
「カルヴァン」 ※( )内は授業担当者
私は将来就く仕事に誇りが持てるようになりたいと思った。なぜなら、「全ての職業はその人の天職である」という(カルヴァンの)言葉を聞いて、どんな仕事でも頑張ろうと思った
から。
授業担当者からのコメント:私も、高校教師という天職を頑張っています。同志ですね。
「福音主義」 ※( )内は授業担当者
「どうせ地獄行きだ」と思って(悪いことを平気でして)いる人みんなに、(カルヴァンの)福音主義(天国に行けるかどうかは予め決定されているという予定説とセット)を教えたいと
思いました。なぜなら、開き直るよりは、ちゃんと前向きに生きた方が幸せだと思うからです。
授業担当者からのコメント:親鸞の絶対他力や悪人正機説を、思い起こします。悪いことをしなければ生きていけない凡夫(ぼんぷ。弱くて罪深い普通の人間)が、自分のしている
悪いことを後悔し続ける。そのつらさやかなしみを抱えて生きていく「悪人」だからこそ、阿弥陀仏は「必ず救う」ことを願ってくれている(これが「本願」)と
いう考え方でしたね。
11月15日(金) 3I倫理
「(カルヴァンの職業神授説)」 ※( )内は授業担当者
私も将来、就きたい仕事があります。だから、今のうちから努力をし、その仕事が私の天職になればいいです。
授業担当者からのコメント:頑張るということは、努力だけではなく工夫も大事なので、自分らしく頑張ったり、楽しく頑張るための工夫もしてみてください。私も、そうしています。
「天国について」
何かをしたからといって、天国に行けるわけではないのだと思った。だが、どうせ自分は地獄行きだろうと思って、開き直るのもダメだと思った。
授業担当者からのコメント:魂が救われることや天国に行くこと自体を、生きる目的そのものにすることが良くないのでは。結果は後からついてきますよね。「よく生きた」結果が、
救われるとか天に召されるなのでしょう。そう信じて、生きていく。