No.146. 緊張緩和期(1) 

① スターリンの死去により、フルシチョフが共産党第一書記に就任し、ソ連の最高指導
 者となったのは何年の出来事か。58年からは首相も兼任し、平和共存政策を展開。 

② 東南アジア諸国の首相会議、コロンボ会議がセイロンで開催され、インドシナ戦争
 (1949~54年)の解決とAA会議の開催などを宣言したのは、何年の出来事か。また、
 チベットを巡る国境紛争回避のために、インドのネルー首相と中国の周 恩来首相の
 間で、ネルー・周 恩来会談も開催され、相互不侵略や内政不干渉などを定めた平和
 五原則が協定されている。

③ アジア・アフリカの29カ国の首脳会議、アジア-アフリカ(バンドン、AA)会議がインドネ
 シアで開催され、反植民地主義・平和共存など平和十原則を確認したのは、何年の出来
 事か。

④ 西ドイツの再軍備とNATO加盟を決めた西側のパリ協定は、何年に結ばれたか。

⑤ 5月に西ドイツがNATOに加盟し、それに対抗して、ソ連を中心に東欧諸国が軍事
 同盟のワルシャワ条約機構(WATO)を結成したのは、何年の出来事か。1991年、ソ連
 消滅で解散。また、この年、第二次世界大戦の敗戦国オーストリアが主権を回復して独立し、
 永世中立国になることを決定したオーストリア国家条約が結ばれている。さらに、米・英・仏
 ・ソ間で、国際紛争の平和的解決を決議した緊張緩和期を象徴する国際会議、ジュネーヴ
 四巨頭会談も開催。これは同年の、第三勢力によるアジア-アフリカ会議の平和十原則に
 対抗した面もある。

⑥ ソ連共産党第一書記フルシチョフが、ソ連共産党第20回大会の秘密報告でスターリン
 批判を行い、平和共存政策を打ち出したのは何年の出来事か。

⑦ 9月のフルシチョフ訪米により実現した、アイゼンハウアー大統領とのキャンプ=デ
 ーヴィッド会談は何年に行われたか。

⑧ 亡命者の増大に悩んだ東ドイツ政府が、西ベルリンを遮断するために「ベルリンの壁」
 を構築したのは、何年の出来事か。


① 1953年(「逝くコミュニズムのスターリン、『雪どけ』」)

② 1954年(「人国こじれないように、コロンボ会議とネルー・周会談」)

③ 1955年(「人国GO!GO!平和へ、バンドンでAA会議と十原則」)

④ 1954年(「人国こじれないように、パリ協定」)

⑤ 1955年(「人国GO!GO!平和へ、ジュネーヴ四巨頭会談」)

⑥ 1956年(「ソ連の人国コロリと、スターリン批判」)

⑦ 1959年(「行くお国はアメリカ、フルシチョフ訪米」)

⑧ 1961年(「く無意味な、ベルリンの壁構築」)


No.146. 緊張緩和期(2)

① 米ソ全面核戦争の軍事的緊張が回避され、米ソの一層の歩み寄りが見られたキューバ
 危機は何年の出来事か。

② 前期冷戦中にソ連が原爆を保有し、米国が水爆を保有したのは何年か。ソ連は水爆を
 1953年に保有。

③ スウェーデンの首都で、核兵器禁止を訴える署名運動、ストックホルム=アピールが
 が決定されたのは、何年の出来事か。

④ イギリスが、西側で2番目に原爆を保有したのは、何年の出来事か。1957年には、水
 爆も保有。

⑤ 米のビキニ環礁での水爆実験により、日本の第五福竜丸が被爆して死者が出たのは、
 何年の出来事か。

⑥ 英哲学者ラッセルと米物理学者(ユダヤ系ドイツ人で米国に亡命していた)アインシュタインが、
 ラッセル-アインシュタイン宣言で、核兵器による人類絶滅の警告を発表したのは何年か。

⑦ 西ドイツの科学者達が、ゲッティンゲン宣言で核兵器研究を拒絶し、ラッセルとアイ
 ンシュタインの提唱により、パグウォッシュ会議がカナダで開催され、全世界の科学者
 による核兵器禁止運動の中心となったのは何年か。

⑧ ソ連が史上初の人工衛星スプートニク号に成功して米国に衝撃(スプートニク=ショック)を与え
 たのは、何年の出来事か。

⑨ フランスが、西側で3番目に原爆を保有したのは、何年の出来事か。

⑩ 前年のキューバ危機を教訓に、米・ソ・英が調印し多数の国が承認した部分的核実験
 停止条約(PTBT)で、地下を除く核実験を禁止したのは何年か。仏・中は不参加。

⑪ 中国が、東側で2番目に原爆を保有したのは、何年の出来事か。これで、五大国が全
 て保有国になった。

⑫ 米・ソ・英など56カ国が調印した核拡散防止条約(NPT)で、非核保有国が新たに核兵
 器を保有することを禁止したのは何年か。仏・中は1992年まで不参加。1995年に無期限
 延長。

⑬ 米国の宇宙船アポロ11号が、初の月面着陸・帰還に成功したのは、何年の出来事か。

⑭ 米・ソが第1次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)に調印して、主に戦略ミサイルの数量を制
 限したのは何年か。

⑮ 米・ソが第2次戦略兵器制限交渉(SALTⅡ)に調印して、戦略兵器の運搬手段や総数を
 制限したのは何年か。同年のソ連によるアフガニスタン侵攻で、米国が批准しなかった。

⑯ 米(共和党レーガン大統領)・ソ(ゴルバチョフ)が中距離核戦力(INF)全廃条約を調印して、
 「核兵器搭載可能な中距離ミサイルを廃棄し、その後も製造しない」としたのは何年か。

⑰ 米(共和党ブッシュ大統領)・ソ(ゴルバチョフ)が戦略兵器削減条約(STARTⅠ)に調印して、
 戦略核兵器の核弾頭の数量を削減したのは何年か。

⑱ 米(共和党ブッシュ大統領)・露(エリツィン大統領)が戦略兵器削減条約(STARTⅡ)に調印して、
 大幅な戦略核兵器の削減を決めたのは何年か。

⑲ 国連総会において包括的核実験停止条約(CTBT)が賛成158カ国で採択され、地下も含
 めてあらゆる核兵器の爆発実験を禁止したのは何年か。インドの反対で条約発効はまだ。


① 1962年(「一苦労に終わった、キューバ危機」)

② 1949年(「さらに人国死苦、ソ連原爆、米水爆保有」)

③ 1950年(「人国GO!、核廃絶に向けて、ストックホルム=アピール」)

④ 1952年(「人国ここに、イギリスも原爆保有」) 

⑤ 1954年(「行くゴジラの年、ビキニの水爆実験で第五福竜丸事件」)

⑥ 1955年(「人国GO!GO!、ラッセル=アインシュタイン宣言」)

⑦ 1957年(「人国GO!何回も、ゲッティンゲン宣言とパグウォッシュ会議」)

⑧ 1957年(「行く困難越えて、ソ連の人工衛星スプートニク成功」) 

⑨ 1960年(「人国無論と、フランスも原爆保有」)

⑩ 1963年(「一苦労さ、キューバ危機後の、部分的核実験停止条約)

⑪ 1964年(「人国無視するなと、中国も原爆保有」)

⑫ 1968年(「一苦労や、核拡散防止条約」)

⑬ 1969年(「行くロケット月へ、米アポロ月面着陸」)

⑭ 1972年(「人国何が何でも制限、戦略核の、SALTⅠ」)

⑮ 1979年(「人国無くせぬ戦略核、まだ制限のみ、SALTⅡ)

⑯ 1987年(「人国離れ業、中距離核戦力(INF)全廃」)

⑰ 1991年(「人国悔いなし削減、戦略核の、STARTⅠ」)

⑱ 1993年(「人国救済してさらに削減、戦略核の、STARTⅡ」)

⑲ 1996年(「ひどく苦労して、包括的核実験停止条約」)

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