No.139. トルコ・イランの近代化

① 軍人ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ、ケマル=アタテュルク)が、トルコ国民党を率いて
 ギリシア軍を撃退し、スルタン制を廃止してオスマン朝を滅ぼしたのは何年か。翌年にトルコ共和
 国を建国。初代大統領に就任し、近代化(トルコ革命)。

② 第一次世界大戦直後に結成された、パリ講和会議へのエジプト「代表」を意味する民
 族主義政党のワフド党が中心となって、エジプト王国が形式的にせよイギリスから独立
 したのは何年か。

③ 軍人レザー=ハーンが、第一次世界大戦後の1921年のクーデタに成功した後、カージ
 ャール朝を滅ぼして初代イラン皇帝に即位し、パフレヴィー朝を建国したのは何年か。

④ イブン=サウードが、ワッハーブ王国(1818年ムハンマド=アリーに滅ぼされたがまもなく復活。
 19世紀後半にまた滅びていた)を復活させてそれと結びつき、アラビア半島をほぼ統一してサウジ
 アラビア王国を建国して初代国王になったのは、何年の出来事か。

⑤ 第一次世界大戦中、イギリスがアラブ人の対トルコ戦協力を条件に、アラブ人居住地
 区のトルコからの独立を約束したフセイン=マクマホン協定は、何年に結ばれたか。

⑥ 第一次世界大戦中、英・仏・露(翌17年、伊も参加)が、トルコ領西アジアの領土分割を決定
 したサイクス=ピコ協定は、何年に結ばれたか。前年のフセイン=マクマホン協定と大きく矛盾。

⑦ 第一次世界大戦中、イギリスがユダヤ人の協力を得るため、パレスチナでのユダヤ人
 国家建国運動(シオニズム運動)を支持したバルフォア宣言は、何年に発表されたか。やはり、
 2年前のフセイン=マクマホン協定と大きく矛盾。

⑧ パリ講和会議がアジア・アフリカには適用しなかった民族自決の理想を、イギリスと
 の戦争(第3次アフガン戦争)に勝利することで実現した、アジアの旧英保護国アフガ
 ニスタン王国の独立は、何年の出来事か。

⑨ モンゴルが1920年に中華民国から独立し、やがてソ連に次ぐ史上2番目の社会主義国
 である人民共和国となったのは、何年の出来事か。1992年、現在のモンゴル国に「脱皮」。


① 1922年(「トルコのさらば、オスマン朝滅亡」)

② 1922年(「代表の国に戻って、エジプト王国独立」)

③ 1925年(「イランの国これでパフレヴィー朝成立」)

④ 1932年(「アラビアの国見においで、サウジアラビア建国」)

⑤ 1915年(「アラブの人国以後建てるぞ、フセイン=マクマホン協定」)

⑥ 1916年(「英・仏・露の人国要るんだ、サイクス=ピコ協定」)

⑦ 1917年(「ユダヤの人国いーな建てるぞ、バルフォア宣言」)

⑧ 1919年「行く行く、対英戦争に勝利して、アフガニスタン王国独立」)

⑨ 1924年(「モンゴルの人国虹かかる、人民共和国建国」)

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