No.118. ロシアの東方進出、英の三角貿易とアヘン戦争
① 初代東シベリア総督ムラヴィヨフが、太平天国の乱や英仏とのアロー戦争に苦しむ清
と国境を定め、アムール川(黒竜江)以北を領有したアイグン(愛琿)条約は、何年に締結され
たか。
② 初代東シベリア総督ムラヴィヨフが、アロー戦争調停の報酬としてウスリー江以東(沿
海州)を領有した北京条約は、何年に締結されたか。同時に、沿海州(日本海に臨む地域)に港市ウ
ラジヴォストークが、極東進出の拠点として建設されている。「東方征服」の意味。
③ 南下政策を推進するロシアが、イランのカージャール朝に結ばせて、アルメニアを割
譲させ治外法権を取得した不平等条約のトルコマンチャーイ条約は、何年に締結されたか。
④ ロシアが、中央アジアにおける清朝中国領の新疆省イリ地方で続いていたイスラーム
教徒の反乱に乗じて、1871年から出兵してその地を占領して起こったロシアと清の間の
紛争(イリ事件)の解決のため、ペテルブルクでロシアと清の間に、イリ地方は清に返還
したが、貿易上はロシアに有利な取り決めとなったイリ条約が結ばれたのは何年か。
⑤ 正規軍の八旗の無力ぶりが露呈し、清朝中国の衰えを示した農民反乱の白蓮(びゃくれん)教徒の
乱は、何年から何年までの出来事か。
⑥ 英東インド会社が、本国での自由主義改革の高まりから中国での貿易独占権を失った
のは何年か。
⑦ 列強の中国進出の始まりである、アヘン戦争は何年から何年まで続いたか。
⑧ 広州で調印された南京条約の追加条約で、イギリスが領事裁判権を取得し、清が関税
自主権を失い、最恵国待遇を認めるなどの不平等条約である虎門寨(こもんさい)追加条約が締結され
たのは何年か。
⑨ 清と米国の間で、南京条約とほぼ同じ内容の望厦(ぼうか)条約が、清とフランスの間で、同じ
く黄埔(こうほ)条約が結ばれたのは何年か。
① 1858年(「ロシアの人は、講和に乗じて、アイグン条約」)
② 1860年(「ロシアの人は、群れをなして南下、北京条約とウラジヴォストーク建設」)
③ 1828年(「ロシアの人はニヤッ、イラン進出、トルコマンチャーイ条約」)
④ 1881年(「ロシアの人、ハッ、ハッ、イリ条約」)
⑤ 1796~1804年(「清朝の人殴る、人は多く死ぬ」)
⑥ 1834年(「イギリスの人は見よ、中国貿易独占権廃止」)
⑦ 1840年(「中国の人は死を」)
~1842年(「中国の人は死におびえた、アヘン戦争」)
⑧ 1843年(「中国の人は死さ、イギリスと虎門寨(こもんさい)追加条約」)
⑨ 1844年(「中国の人は死屍累々、米と望厦(ぼうか)、仏と黄埔(こうほ)条約」)
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