No.107. ロシアの改革と南下政策
① ロシアが南下政策の実現のため、トルコを支援して「ダーダネルス・ボスフォラス両
海峡のロシア軍艦の独占航行権」を承認させたウンキャル=スケレッシ条約を結んだが、
この第1次エジプト事件(エジプト=トルコ戦争)は、何年から何年までの出来事か。
② ウンキャル=スケレッシ条約は、英の巧みな外交(英-露-墺-普間のロンドン四国
条約)によって破棄されたが、この第2次エジプト事件(エジプト=トルコ戦争)は、何年から
何年までの出来事か。
③ 仏革命からロシアに移っていた聖地イェルサレムの管理権が、皇帝ナポレオン3世の
フランスに戻ったことを背景に、ロシアがトルコ領内のギリシア正教徒保護を口実にトルコ
に宣戦して始まったクリミア戦争は、何年から何年まで続いたか。
④ クリミア戦争の敗戦を反省し、ロシアの新皇帝アレクサンドル2世が「上から(政府主導)
の近代化」に着手した、農奴制を廃止する農奴解放令は何年に発布されたか。地主有利
で不徹底ではあったが工場労働者を発生させ、ロシアの産業革命や資本主義に道を開いた。
⑤ バルカン半島で起こったギリシア正教徒の反乱を背景に、ロシアがトルコ領内のスラヴ
民族の保護を口実にトルコに宣戦して始まった露土戦争は何年から何年まで続いたか。
⑥ サン=ステファノ条約に英・墺が激しく反対したために生じた国際危機を調停しようとした
ベルリン会議で、宰相ビスマルクが「公正な仲買人」を自称して調停者となってベルリン条約
を成立させ、ロシアの南下を三たび挫折させたのは、何年の出来事か。
① 1831~33年(「エジプトの人は、『さー行け、さんざんやっつけろ』と、アリー応援、
第1次エジプト事件」)
② 1839~40年(「エジプトの人は、『イギリスの策でしょー』と嘆く、第2次エジプト事件」)
③ 1853~1856年(「人は降参、死体はゴロゴロ、クリミア戦争」)
④ 1861年(「ロシアの人は胸一杯、農奴解放」)
⑤ 1877年(「ロシアの人はヒヒッ」)
~1878年(「トルコの人は冷や冷や、露土戦争」)
1878年(「人華やかに、ベルリン会議」)
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