No.50. ティムール朝、オスマン朝
① 西チャガタイ=ハン国のトルコ人貴族ティムールが、中央アジアにイスラーム王朝の
ティムール朝(ティムール帝国)を、成立させたのは何年か。
② ティムールは、西アジアを支配すると小アジアに進撃して、最初の発展期であったト
ルコ系のイスラーム王朝であるオスマン帝国を撃破してそのスルタンのバヤジット1世
を捕虜にしたが、このアンカラの戦いは何年の出来事か。
③ 学芸に熱中して政治を怠った4代スルタンのウルグ=ベク暗殺後、東西分裂して衰退
したティムール帝国が、中央アジアのトルコ系遊牧民族キルギスに滅ぼされたのは、何
年の出来事か。
④ セルジューク朝の分派であるルーム=セルジューク朝の衰退に乗じ、アナトリア(小アジ
ア)西部に自立したオスマン=ベイがオスマン1世としてオスマン朝を開いたのは、何年
の出来事か。
⑤ オスマン皇帝バヤジット1世が、ハンガリー王ジキスムント(後に神聖ローマ皇帝となる)の指揮す
る仏・独等のヨーロッパ連合軍に勝利したニコポリスの戦いは、何年の出来事か。
⑥ オスマン皇帝メフメト2世は、都コンスタンテイノープルを占領してビザンツ帝国を
滅ぼし、イスタンブルと改称して現在に至るが、それは何年の出来事か。
⑦ オスマン皇帝セリム1世が、エジプトのマムルーク朝を滅ぼした際に、カイロで擁立
されていたアッバース朝(1258年、モンゴル帝国のフラグにより滅亡していた)カリフの末裔からその位を譲り
受けて、政教一致のスルタン=カリフ制を成立させた(あるいは18世紀後半に始まった)
とされるのは、何年の出来事か。
⑧ オスマン皇帝スレイマン1世が、神聖ローマ帝国(オーストリア)の帝都ウィーンを包囲して、
冬が来ると余裕で撤退したのは、何年の出来事か。
⑨ オスマン皇帝スレイマン1世が、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇庁のキリスト
教国連合艦隊に勝利して地中海の制海権を握ったプレヴェザ海戦は、何年の出来事か。
⑩ オスマン皇帝スレイマン1世の死後わずか5年後、オスマン艦隊がスペイン・ヴェネ
ツィア・ローマ教皇庁のキリスト教国連合艦隊に敗れたレパントの海戦は、何年の出来
事か。ただし、この後も17世紀後半まではトルコ勢力が衰えることはなかった。
① 1370年(「いざ、なろう、ティムール朝建国」)
② 1402年(「一笑に付す、アンカラでのティムール勝利」)
③ 1500年(「以後大きく変わる、ティムール朝滅亡」)
④ 1299年(「人憎く、オスマン朝建国」)
⑤ 1396年(「ヨーロッパの人みな苦労、ニコポリスの戦い」)
⑥ 1453年(「ビザンツの人よ降参せよ、コンスタンティノープル占領」)
⑦ 1517年(「以後、スルタンの言いなりに、スルタン=カリフ制成立」)
⑧ 1529年(「以後憎まれる、ウィーン包囲」)
⑨ 1538年(「ヨーロッパの人降参は、プレヴェザ海戦」)
⑩ 1571年(「ヴェネツィアの海将バルバリーゴに泣いた、レパントの海戦」)
※塩野七生著『レパントの海戦』を読めば分かる語呂合わせ
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