「木洩れ日バス」
それは私が今のように海辺の道を走る定期バスの運転手をするずっと前の出来事です。
ある事情があって飛び出した故郷からできるだけ離れようとして九州の山合いの道を回る
観光バス会社に勤めていたまだ若い頃のこと。
団体のお客さんを大勢乗せて森の中に入った私のバスを二頭の鹿が止めました。
木洩れ日の中に寄り添って驚いたようにバスを見ている鹿たちはつがいのようでとても若々
しく感じられました。前の方に座っていたお客さんたちもホーッとため息をついて見とれていた
ことも思い出されます。
ゆっくりと頭を回してシカたちが木々の中に消えて行った後も残像を結ぶことに懸命でバスを
動かせないでいた私を酒に酔ったお客さんが「何やってんだ。早く出せよ」とどなりつけました。
それにこたえて私はエンジンを切りハンドマイクで「みなさんここがあの有名な『シカの森』です。
さあどうぞ降りて下さい。」と思いつきのデタラメを言うと、「そんな名所は聞いたことがないぞ」
などと文句を言いながらもお客さんたちは下車しました。
少し意地悪に微笑みつつ私も外に出ました。そして煙草を取り出しながらバスを見ると木洩
れ日の中で光の斑点を車体に浮かべ低木の枝を角にしたバスが一頭の若い雄鹿の姿に重な
ったのです。それは孤独な私自身の心を映したものだったのかもしれません。