YUKIE.Y(K)の「北欧紀行」   
                                                vol.2 04.1.05 


北欧の旅

  (2)スウェーデン その1

  ヘルシンキからのフェリー内では比較的、ロシア語が多く飛び交っており、ロシアからの人が

多いようでした。印象深いのは、日本人?と思ったら、ロシア語を話していたり、ロシアの広大

さと民族の多様性に気づかされることでしょう。船はたくさんの小さい島の間を通り抜けていっ

たのですが、その島々にはかわいらしい家が建っていたり、古い城があったり、スウェーデン軍

の基地があったり…。そしてストックホルムに近づくにつれてその眺めは変わっていき、工場や

たくさんの建物が見えてくることになる。


 下船し、タクシーで市内に向かうことにしました。スウェーデンのタクシーはだいたいベンツ

・トヨタ・ボルボが三大勢力のようです。できればスウェーデンが誇るボルボか、ベンツに乗り

たい気もしたのですが、残念ながら?私たちの前に来たのはトヨタでした。ドライバーは身体の

大きなスウェーデン人でちょっと怖そうでしたが、「おおあんたら、日本人か。よく来たな。」

というようなことを言い、「よくわかったね」と言うと、「だってあんたら中国人には見えない

よ」と言われました。前に知人が「意外に、西洋人は日本人と中国人などの区別がつくのだ」と

教えられましたが、まあそんなことはどうでもいいですけどね。愛知県出身の夫は「あなた、ト

ヨタに乗ってますね。」と言うと(北欧の地で地元のトヨタがポピュラーなことがうれしかった

らしい)ドライバーはトヨタを褒め、「大概のクルマ、例えばプジョー、フォード、ボルボは5

年も乗ればジャンクになるがトヨタはならない!素晴らしい!(確かにあまり新しそうではなか

った)」と言っていた。そして彼は「ところで日本のどこからきたの?」と言うので「横浜です」

と言うと「おおなんか聞いたことあるぞ。人口は何人だ?」と訊かれ、「
300万かな(正確には

400
万人に近いらしい)」と答えると「ストックホルムは100万だ(ちなみにスウェーデンの人

口は約
900万人)」と彼は言った。「横浜は去年ワールドカップの決勝をした」と言うと、「ワ

ールドカップ? テニスか?」と言うので「いやいやサッカーだ」と言ったら、「ほう」と言わ

れた。おじさんはあまりサッカーに関心がないのでしょう。私もさほどあるわけではないけど…。

そうこうするうちにタクシーは古いスタジアムの前を通った。「あれは
1914年のストックホルム

オリンピックのスタジアムだよ」とおじさん。するとなぜか突然夫が「あなたそれ見ました?」

と。おじさんも私も大爆笑。おじさんは大うけし「あんたよく言うわー」と言うようなことを言

った。しかし実は夫によれば14を40と聞き間違えたらしい。それでもあのおじさんは生まれ

てないと思うけど…。(ちなみに
1914年というのは後から調べたらおじさんの間違いで、実際は

1912
年だった。あと1940年は戦争のため中止。もし戦争がなければ東京で開かれていた。)お

じさんはとても饒舌になり、「おすすめはヴァーサ(号博物館)とスカンセン(野外博物館)だ

な」とか、さまざまなスウェディッシュジョークの披露とかを聞かされているうちにホテルに到

着しました。


 荷物を部屋に置き、観光に出かけました。ホテルのとなりはノーベル賞受賞式を行う劇場でそ

の前には市場がありました。市場には花屋やいちごを売る屋台がありました。いちごといえばヘ

ルシンキにはあちこちにいちごを売る屋台があって、「7月の末なのにいちご!」と驚かされま

した。北欧のベリー類は他の場所のものに比べ、栄養価に優れているらしい、と後から知ったわ

けですが、ヘルシンキでは屋台のいちごを食べながら歩く人を多く見ました。しかし、ストック

ホルムではいちごの屋台があったのはこの市場だけのようでした。市場を横切り、目抜き通りの

ひとつ、ドロットニング通りをまっすぐ歩くと市内中心部の「セルゲル広場」が見えてきます。

その広場の前の文化会館のなかのツーリストインフォで博物館等のフリーパスになる、ストック

ホルムカードを購入しました。そしてお目当てのドロットニングホルム宮殿に行くべく、市庁舎

脇のフェリー乗り場へ向かいました。


 今年の夏のヨーロッパの猛暑はさんざん報道されていましたが、北欧もその例外ではありませ

んでした。この日は曇りで涼しかったですが。


 ストックホルムの全面積の三分の一は水(残り三分の二はそれぞれ、街と緑)で周辺には二万

五千の島(ほとんどは無人島)があり、ストックホルムも14の島をつないで出来ているのだとか

(向出注:「北欧のヴェネツィア」と呼ばれる「水に浮かぶ街」が、このストックホルムだそう

です)。先ほどのタクシーのおじさんは「ドロットニングホルム? あんなの何もないとこだし、

遠いよ」と言っていたわけだが、それでもフェリーで
50分かけて行くことにした。フェリー乗り

場はたくさんあり、市内観光、交通の大きな手段となっているようでしたが、ドロットニングホ

ルム行きはひとつしかない。人気ないのかしら、と思っていたら、フェリーはかなり満杯でした。

フェリーはメーラレン湖を進んでいくのですが、私がかなり小さいころにやっていたアニメ「ニ

ルスのふしぎな旅」の原作を少し読んで行ったのですけども、本によるとメーラレン湖には伝説

があり、それは「ある夜、猟師は少女たちが楽しそうに踊るのを見かけた。彼女たちは朝になる

とあざらしの服を着て湖へ帰っていった。猟師はいたずらを考えた。あざらしの服をひとつ隠し

たのだ。そうしたら、朝、一人の少女が悲しそうに泣いていた。服がないから帰れないと言う。

猟師は親切なふりをし、彼女を家に住まわせた。そうこうするうちに、二人は結婚することにな

った。結婚式への船で猟師がニヤニヤしているので、少女がわけをたずねると、猟師は服を隠し

たことを話し、その服を見せた。少女は怒り、服を奪って海に逃げた。驚いた猟師が海面に向け

て発砲すると泣き声がし、そのあとからなにやらいい香りがするようになった。その後のある日

王様がそのいい香りにつられて湖にやってきて、そしてこのほとりに都を作った。それがストッ

クホルムなのだ」というような内容でした。その「いい香り」は残念ながらしませんでしたが、

50分、美しい湖クルーズが楽しめました。湖のほとりにはたくさんのボートハウスがあり、泳い

でいる人々(結構涼しい日でしたが。隣にいたイタリア人も「寒いのにねぇ」と言っていた。)、

ボート遊びを楽しむ人々…。ヘルシンキでもそうでしたが、かなりの確率でその人達はフェリー

に手を振ってきます。


 ドロットニングホルム宮殿はユネスコ世界遺産で、また、1983年から現在の国王一家の住居

にもなっているが、住居部分以外は一般に公開されているようです。国王一家は穏やかな郊外

の環境を求めて、ストックホルム中心部の王宮から移住した、とのことですが、非常に豊かな

自然の中にあり、船着場のまわりにはたくさんの野鳥がいました。ドロットニングホルム宮殿

に入る際には貴重品以外の物はすべて一度預けなければならない。そうやって中に入る。まあ

中はなんとも豪華で、夫は感動していた。とにかく階段や吹き抜けには大理石の壁や彫刻類、

絵画に覆われている。たくさんの部屋も程度の差こそあれ、豪華だ。印象深いのは17世紀の欧

州の王侯たちの肖像画がたくさんあることだ。なぜかは知らない。そして「中国の間」という

のがあり、「中国風」の調度品がおかれていました。

 ドロットニングホルム宮殿

 見学が終わり、持ち物を返してもらい、この宮殿の「日本語パンフレット」を購入しました。

この日本語パンフはなかなか良い出来でおもしろいのですが、やや日本人になじみのない名が

たくさん出てくるため、後日ちょっと学習しました。これからの文はその学習成果? が現れ

てくるわけです。この宮殿はもともとスウェーデン独立の祖グスタフ=ヴァーサの息子のヨハ

3世の王妃のためのものであったが、(ドロットニングは、スウェーデン語で「女王」。ホ

ルムは、「島」)現在の形にしたのはそれからだいぶ後、約200年後のアドルフ=フレデリッ

ク王の妃ロヴィサ=ウルリーカとその息子グスタフ3世(在位1771〜92)の手によるところが

大きい。この二人は文化の振興に努め、絵画購入、演劇の支援等を行ったが、そのために北方

戦争
(向出注:1700〜21年、新興国のロシア皇帝ピョートル1世が強国スウェーデン王カ

ール12世「少年王」
を辛くも破った戦い。デンマークとポーランドもロシア側で戦っている)

以後国力の落ちていた同国の財政は疲弊、グスタフ3世は暗殺されてしまい、この宮殿もその

後、忘れられていたという。あの豪華なものは20世紀に修復されたのか、と思うと、大変だっ

たろうなあと感心します。(ちなみにグスタフさんはオペラ「仮面舞踏会」のモデルだそうで、

これに関するウェブサイトは以下の通り<向出注:このグスタフ3世は、政治よりも演劇に熱

心で、仮面舞踏会で暗殺されたとのこと>。


 外へ出てさて次は庭園を見物して「中国の城」へ行くか、と言っていたら雨に降られました。

美しい庭園を横切りやっとの思いでたどり着いた「中国の城」はなんとも摩訶不思議。内装、

調度品はすべて「東洋風」(もちろんヨーロッパ風の味付けの)。宦官の像があちこちにあっ

たり、中国の物のみならず、日本の漆器もあり、感心しましたが、少し気味の悪い感もありま

した。夫は全く理解不能だったようです。ここでも荷物を預けていたので返してもらったので

すが、カサやらビデオカメラやらいっぱいあったので係りの人がおどけて「ふー」というふう

に返してきたので苦笑しました。雨で疲れていたためここでは何も買いませんでしたが、これ

が失敗でした。船着場の近くにコンビニがあったし、セルゲル広場のツーリストインフォには

おみやげがたくさん売られていたのでここであせらなくともあとでおちついて買えばいい、と

思ったのです。これが大失敗! 中国の城はマイナーなのか、他のところでは絵葉書すら売ら

れていないのですよ。実際あとから日本のガイドブック、旅行をした人のホームページ等見ま

したが、この不思議な城はかなり無視されています…。私にとってはもっとも印象深い場所の

ひとつだったのに…(向出注:シノワズリ「中国趣味」は、バロック式からロココ式の時代、

17・18世紀ヨーロッパ近世美術の特徴の一つ。アジアからの工芸品が影響を及ぼしている)。


 まあまた雨に降られつつ、足も疲れてきて、疲労困憊のピークでしたが次はドロットニング

ホルム宮殿劇場(向出注:上に登場したグスタフ3世が母親に贈ったものとのこと。1766年に

作られたもので、その舞台装置は当時のものを使用。その意味で最古の劇場だとか)へ向かい

ました。ここへ入ろうとしたら、「ここはガイドツアーだけだから事務所で申し込みなさい」

と言われ事務所へ。するとあらあらら、英語ツアーは出たばかりで一時間待たなくてはなりま

せん。しかし時間がない。困ったなあ。フランス語ならなんとかなるか、と見るとこれにいた

ってはそれより後。そこでヤケクソで「スウェーデン語」に申し込みました。事務所の人は

「あんたらスウェーデン語わからんだろ。いいのかね」と言い、私は「とにかく中の美しい劇

場を見たいのだが、いかんせん時間がない」と言い、「ああそうですか、じゃあ10分後にスタ

ートだから、それまで、資料館見てなさい。ここは無料よ」と言われ、その通りにしました。

18世紀の資料を見たあと、待合場所へ。ガイドはおそらく大学生の女の子と思われ、やはり事

務所の人と同じことを言われたが、同じことを答えた。英語会話はここまでだった。どうやら

私たちと同様の理由で参加した英語国民(イギリスか?)二人がいましたが、あとは皆もちろ

んスウェーデン人。われら
人は皆の邪魔にならぬように神妙にしておりました。しかしです

ね。中はわりとおもしろかったですよ。チェンバロの調律が見られたり。楽屋ツアーがあった

り。まあスウェーデン語はわからなかったですが、ドイツ語の親類のようなその言葉の響きに

はなんとも素朴な美しさを感じました。(実際、ドイツ語とは親戚です、英語に多大な影響を

与えたデンマーク語<向出注:英語国民の多数を構成しているのがアングロ=サクソン人

の人々。それは今のデンマークに居住したアングル族と北ドイツのサクソン族が中心>とは兄

弟語にあたります)ツアーのスウェーデン人のなかにデヴィッド=ベッカムのマンチェスター

でのユニフォームを着ていた男の子がどうやらガイドのお姉さんにからかわれていたのと、な

にやら舞台劇の説明で、ナイフで刺されるしぐさ(「仮面舞踏会」についてか?)をしていた

のが印象的でした。


 そして見学を終え、フェリーで帰ろうと思い、船着場へ。しかし時間が少しあったのでコン

ビニに寄り、ここで「中国の城」に関する絵葉書が売られていないという悲劇にみまわれつつ、

昼食兼おやつを買いました。このように軽く済ませたのにはわけがありました。それはあとの

こと、とし、フェリーに乗りました。ホテルに戻る道中、お土産屋さんでなかなかかわいらしい

絵を買い、セルゲル広場付近の屋台になぜかトヨタのエンブレムの野球帽が売られているのを発

見しました。そしてホテルで正装に着替え、タクシーを手配してもらい、ストックホルム市庁舎

へ。このストックホルムでのハイライト「ノーベルディナー」のためにです! 

 市庁舎脇のフェリー乗り場で(当地でのソフトクリーム…ソフトアイスと
               言っていたのスモールサイズを手に)


 
ストックホルムから、同行者は写真よりビデオに力を入れ始め、突然写真枚

数が少なくなります(苦笑)そこで埋め合わせるべく、ストックホルムのサイ

ト(日本語あり)http://www.stockholmtown.comhttp://www.virtualsweden.se

ドロットニングホルム宮廷劇場のことが含まれている(英語)を紹介しておき

ます。