『勉強しなければだいじょうぶ』(五味太郎) ※書き込み等コメント


☆ 勉強と学習は違う。

 ○ 勉強:他動詞。させる、させられる。当事者にとっての個人的必然性なし。

 ○ 学習:自動詞。当事者にとっての個人的必然性あり。(→M:「集団的必然

  性」は? それがあるとして、その内容・評価規準を決めるのは誰? 国家?

  政府? 大人? 結局、これを勉強させられる? cf.学習指導要領)


 ○ 明治時代の西洋化(近代化はそれ以前にもあったし、西洋化とは異なる。

  ex. 荻生徂徠の実証主義)を通して、日本人は学習しなくなり、勉強させられる

   ようになった。

 ○ 学習は個人的自由・権利、勉強は国家的強制・義務。

 ○ 日本は、学校制度がはっきり出来ていない頃、学習「制度」(制度のプラス面。

   いい意味での制度)がとても盛んだったのでは。

  ex. 伝承、徒弟制度

 ○ 空海は学習し、漱石は勉強「させられた」(→だから、ノイローゼになった!)。

 ○ 空海は自分から遣唐使船に乗り、漱石は明治政府から英国に行かされた。

 ○ 前近代の教育は、現場でライブでスムースに行われていた。

  ex. おっかさんの横で、料理を覚える娘。

    徒弟制度の大工さんと五重塔や東大寺の建築技術。

 ○ なにが基礎・基本かも、自分が決める。そこにも当事者としての個人的必然性あり。

  cf. 一般教養は、「ごまかし言葉」の代表。

    「抽象画は具象画を卒業したらわかる」とか、「基礎は写実」というのもごまかし。

 ○ 一般教養よりも「自己教養」・「個人教養」(こだわり)。

  ex. 『銀河鉄道の夜』を、「勉強人」は卒業したと思うが、「学習人」はずっと気にな

    り、忘れられない自己教養・個人教養になる。

 ○ 「学習人」は、尊敬より敬愛を重んずる。よって宮沢賢治は、「賢ちゃん」。

 ○ 「勉強は成長するために必要。勉強は学校でするもの。学校は社会の中心」になって

  いることに疑問。

 ○ 学習できない人、勉強「しか」できない人を馬鹿という。(M:これぞ「バカの定義」!)

 ○ 生来の「学習人」が、「勉強人」化させられる! (M:人は誰でも本当は「学習人」とし

  て生まれてきて、「学習人」として生きていくのに…!)


 ○ (貧しい、その場しのぎの)対応力と(豊かな、応用の効く)反応力の違い。(M:対応力

  と反応力は逆では? 社交性と社会性にも通じるのでは? 「うまく生きる」と「よく生きる」

  にも)

 ○ 「勉強なんかしている場合じゃない!」と気付けば、「学習人をキープ」できる。

 ○ 三者面談。材料の少ない先生と学校に任せっぱなしの親が、「ちょっと考えたい」「少し

  休みたい」「いろいろ作戦があるけど、まだまとまっていない」という子どもの意見や思いを

  無視している。

 ○ 愛とはべたべたでなく、さっぱりのんびり。べたべたは「ごっこ」。家庭ごっこ、友情ごっこ、

  恋愛ごっこ。(M:「あるべき」愛?)

 ○ 「勉強人」=「学校人」。(M:「学校中毒」? 「学校病」?)

 ○ 学校に行かなくなった人でダメになった人の数というデータはないが、学校行ってて悪く

  なった人の数は膨大というデータがある。

 ○ 授業(用)言語や授業(用)態度は、死んでいるような言語や、死んでいるような態度?

  (M:授業というより学校? 「聞いてもらうこと」でなく「話すこと」が優先される? ソローの

  日記にある言葉)


 ○ 先生はインストラクター的であれ!? 

  ex. 東急ハンズのおじさん(お店=おじさんの愛している空間)

 ○ 高度なファンレター「五味さんは、五味太郎の絵をがんばってください」。

 ○ 学校で教えていることは二流、付け焼き刃、中途半端、貧乏臭い。学校よ、教えないで!

 ○ 学校はいらないが、学習サポートシステムと「新」義務教育は必要。

 ○ 「新」義務教育とは、「実生活用基礎手段教育」。法律と歴史も? それらは、世の中の仕

  組みのファクターとして。やっぱり学習サポートシステムに回そっと!

 ○ 自分のやっていることを子どもたちに伝えたいと考える人が、学習サポートシステムの一

  員として名乗りを上げる。それを「本職にしてはダメ」。心ある大人の余力がいい。これで子

  どもの世界だけでなく、大人の世界も整ってくる。

 ○ もう一つが、「名称未設定学習システム空間」。公園のイメージで、基本はぶらぶら、うろ

  ちょろ。少し刺激的な本が並んでいて、大人はインストラクターに徹する。

 ○ 器械体操の鉄棒の思い出。専用の鉄棒の感触。革製のプロテクター、滑り止めの炭酸

  マグネシウムの粉…。少年・少女の幸福とは、「一流への入り口」、「大人への入り口」を味わ

  うこと。ちょっと背伸びする素敵さ…。

 ○ ある音楽家の怒り「なんであんなプラスチックのリコーダーなんか子どもに与えるんだ?」。

  これも、例の「悪しき教育的配慮」。少し覗かせるだけで、「ハイ終わり」という悪例。

 ○ 育てる、躾(しつけ)るは死語にしよう。これからは、育つ、「躾(しつ)く」(M:文法的にマル?)

 ○ 教育の権利とは、学校に行く権利でなく、学習する権利。

 ○ 美術館も図書館も動物園も、本当に行きたい人だけが行くようになると変わる。学校も!

  これが、文化の成熟ということ。

 ○ 「おまえらどうせ見てもわからないんだから早く出てけ」(法隆寺夢殿での、修学旅行引率の

  中学校教師)は名言。逆に、五重塔を作りたいと思って見る生徒の見方、集中力はすごい。

 ○ WBC、日本対韓国、韓国を応援。一番お気に入りのチームだったから。「俺のWBC」。

 ○ 五味太郎の仮説。生物は魂のピークの時に生まれ出る。そして、その高みから落ちないよう

  に抵抗するのが生きるということ。頭でっかちだと落ちやすい。システムにとらわれると落ちやす

  い。チーターを見よ。シンプル。共生という感覚も、「いっしょに漂っていようよ」なのでは?

  (→M:エントロピー増大にレジスタンスする生き方? 李 卓吾の童心論?)

2010/12/20 11:30